仮庵

書きとめる仮住まい

じつはマイナス地点にいる可能性。

英語の勉強やら筋トレをしていて、最近思うことがある。

『ゼロからはじめる◯◯』という初心者向けの書物があるけれど、挫折して消えていくビギナーの多くはマイナス地点にいたのではないだろうか? ということだ。

要は、基礎がない状態ということ。ゼロからはじめられたり、高校生向け書物からはじめられる人には小中でしっかり培った基礎があると思う。

しかも、そのゼロという設定は相対的で、例えば高校英語をなんとなーくやっただけの人と、大学入試で英語を勉強した人がある時「英語、やりなおすか」と思ったとして、そのゼロ地点には大きな開きがある。

そんなもんだから、それぞれに思っているゼロの設定が違う。

ゼロからはじめられるというのではじめてみたら続かなかったとか、挫折した、という理由の多くは根性論上の理由ではなく、実は設定されているゼロの基準からすると、マイナス地点にいるから。なのかもしれない。

だから、マイナスにいるとは思いもせずゼロと書いてあるのに挫折してしまう自分は、それに向いてないとか、わからないとかで諦めてしまう。

これはスタートの起点は必ずゼロである、という思い込みからくる悲劇なのではないだろうか。

数直線を引いてみると、ゼロからしてプラスの方向の反対側には幸いにしてマイナスがある。まだ設定されたスタート地点に立っていないだけなのだ。道は閉ざされていない。

しかし、マイナスからゼロに上がるというのはゼロをイチにするよりしんどいと思う。ベクトルをぐるりと反対に向ける作業である。中学一年生で数学が苦手な人間が苦悩する部分だ。

そして、自分がゼロどころかマイナスにいるということを認めるのもしんどい。自尊心はいつだって守られていたい。

ただ、ゼロにも立っていないということを受け入れるとめちゃくちゃ勉強がはかどる。なぜならすべては自分が知ってると思い込んでいる既知のものの確認からはじまるのだから。それは負荷が少ないうえに、新たな発見があったりして日々がきらめく。

「中学英語から? いけるいける」 と思ってやって挫折したら、じつはその理由は日本語を読めていない。これはわたしの経験。 しかも、中途半端に過度な想像力で国語の点数を取ってきただけで、論理的に考える能力がないのに「国語、得意です」風だからやっかいなのだ。

小学生の国語で習う(らしい)品詞についてのアレコレを知らなければ、イメージではなくロジックで日本語を読めなければ、日本製の英語の文法書の多くは日本語で書かれているからハナからつまづくのである。これがマイナス地点にいるということの我が身を犠牲にした一例。 小学国語辞典を読むと、知らないことがたくさんあることに気がついて赤面するだろう。

もうひとつ。最近やっているので書くが、筋トレならば休憩をして筋肉を休ませる必要があると一般には言われる。しかし、それに該当するのは筋肉痛になれるくらいトレーニングしている人であって、筋肉痛にすらならない人間=マイナス地点にいる人は毎日やっていいのである。というのは調べて知った。

自分が実はマイナス地点にいるということに気がつけたら、あとはなんの華やかさもなく日々継続するしかない。 わたしはそれしかしていないから、そうとしかいえないというだけだが。

他人に面と向かって直接スバリと「あなたはマイナス地点にいます」と言われたらとりあえず気分はよくないと思う。一番いいのは自分で気がつくことだろう。

しかし、自然数だけ使っておけばなんとかなる世界で生きていると、まさかマイナスなんていう場所があろうとは思わないのでは? という思いでこの記事を書いた。

数直線を多用するようになると、マイナスの世界はゼロの手前にあることに気がつく。そしてネガティブに捉えられがちな「マイナス」は、そんなに遠くもなく恐ろしくもないごく身近な位置にいるのである。

左右は無限に広がる。自分のスタート地点は自分で決めることができる。