仮庵

書きとめる仮住まい

幻燈

新学期がはじまり、不慣れなことだらけで子も親もだいぶしんどかった。まだポツポツと問題は起きるものの、やっと生活のリズムが掴め安定してきている。

 

個人的には、『イメージ』に追い詰められたのが一番しんどかった。

親というものを、自分の親からのイメージやステレオタイプのイメージで無意識に演じようとする時がある。主に自分も混乱の中にいるとき。確固たるものがおぼつくと、イメージにすがろうとする。たとえそれが、自分の意に反するものでも。

オットは、イメージする親というものに追いつめられているように見えたと言い、「(自分がイメージする)いい親になろうとしてね?」というストレートな言葉でわたしの『そんなこと思ってねえよコノヤロウ!』スイッチをキックした。反発はわたしを幻惑から脱出させ、『わたし』を取り戻す。

いい親をしなきゃ、とは思わなかったが、親としてこうしなきゃ。は思っていた。おそらく言葉の選び方が違うだけで、オットが言ったことは同義だった。

イメージは幻燈だ。良く見え、良く思え、キレイに見え、どこまでも素晴らしく見える。それらは無意識を誘惑し、無意識を操り、境界を曖昧にしようとする。融合できるのならなんの苦しみもないのだろうが、わたしには自分を更に見失わせる苦しみでしかなかった。その演じようとしたやつが自分にはむかないやつなんだもの。

親はイメージで存在するのではなく、機能で存在すると思っているのにも関わらず、自分も不慣れなことが多いとあっという間に飲み込まれてしまう。まだまだ修行が足りないとがっかりする。

 

親の日常的な機能は、まだひとりではご飯したくも洗濯もおぼつかない子どもが生きるための衣食住の補助をすること。めんどうくさい社会生活をなんとか生きるためのTipsを提供することもある。ただ、これを使うか使わないかは本人次第であるとは伝えている。

本質的な親の機能は、彼らを肯定し(甘やかすではない)帰ってくればただ安心できる。宿題を見ていてほしいとか、何かを作ったから見てほしいとか、怖くて寝られないから抱っこしてほしいとかそういった発達段階に応じた欲求に答えること。それ以上でもそれ以下でもない。