仮庵

書きとめる仮住まい

【エピソード】茶碗

 朝日が黄金とクリーム色のグラデーションを作る。目覚めたばかりの庭木を照らし、夜露を乾かしていく。
 遠景の輪郭が曖昧になった庭は、自らのものだというのに荘厳とすら思える光景だ。
 ひんやりとした清々しい空気を肌に感じながら、信は縁側でうろ覚えのラジオ体操のマネをする。

 ーー今日も昨日も明日も大して変わりないが。

 そう思ってしまうと吹きかけるような冷気が通り過ぎ、急に目の前がしおれた。
 それまで美しいと思っていた光さす気持ちはなんであったのか。

 信の日課。
 朝食を食べたら小学生たちが元気に通り過ぎる声を聞きながら、まず庭に水をまく。
 静寂が戻る頃、縁側に続く和室の文机から小型のラジオを持ち出してきてAMのざらざらとした音と共に縁側に座ってぼんやりしたり、いびつになった爪を切る。

 妻の蕗子さんはそのあたりで商店街にある食堂へ働きにゆく。
 ある日急に働くことを決めて出かけていくようになった。

 時々、そういうことがある。
 信が話の流れをまとめきれずもたもたしていると、蕗子さんは風にでもさらわれたかのようにどこかへ行ってしまうのだ。

 平日の午前から夕方まで留守番をすることはしばらくそわそわとして落ちつかなくもあったが、出かけるようになった蕗子さんは出会った頃のようにハツラツとしたような気がする。

 腹が減ったら時間に関係なく蕗子さんの用意してくれた昼食をひとりで食べ、縁側に戻り時折うつらうつらしながら小口も茶けた文庫本の活字を追う。

 朝と同様またはそれ以上の小学生たちによる走り去る音、砂を引く音、混ざり合った声声声。
 それを合図に次第にまどろみからさめる。

 玄関をまたぐこともなく外に飛び出した小学生のものであろうか。
 油をさしていないけたたましい自転車のブレーキの音がどこかで聞こえる。
 それも次第に遠のいていき、どこかへ行ってしまう。

 しばしの静寂をカラスと過ごしていると郵便受けがカタンと鳴る。
 それを合図によっこら立ち上がって新聞を取りに行き、また定位置に戻ったら作業のように一通りめくりそれで終いだ。

 陽が落ちようとする頃、どこからか聞こえてくるアコースティックギターの音。
 いつから鳴るようになったかは、はっきりと時期は覚えていない。しかし、ほぼ毎日聞こえてくるのは知っている。
 その音色に耳と胸をうずうずさせているうち、蕗子さんの明るい声がする。
 それまで一声も出していなかったから、咳払いをしてからそれに応じると、笑顔の妻が廊下からひょっこり顔を出した。

 「ただいま」

 いつもの、二回言うただいま。
 蕗子さんは落ち着くことなくそのまま夕飯を作るから、とくに言われたわけではないが風呂にお湯をために行く。

 風呂の栓をし忘れていないかよく確認してから蛇口をひねる。
 お湯がドボンドボンとたまるのをじっと眺めていると、風呂場の小さな窓の外から遠くからバイクの通り過ぎる音が聞こえる。それを合図に信は風呂場から離れた。

 急ぎ気味で縁側に戻り、縁側から庭に顔を突き出すがいつもギターの音は止んでいるのだった。
 すこし残念な気持ちになりながら、縁側に腰を下ろすと、子どもの帰宅を促すメロディが聞こえてくる。

 そこから日が暮れるまでの間に喧騒はない。家に戻る子どもたちに、朝や学校帰りのような騒がしさがないのが不思議だ。

 夕飯を静かに食べる。日中に関する会話は特にない。掛け時計のコチコチという音がよく響く。

 まるでぴったりと貼られたポスターのように動かない風景を、開け放した縁側からぼんやり眺める。
 これが、日々の暮らし。
 何も変わらないことは安定の証拠だと安堵しつつも、どこか腑に落ちない時がまれにある。
 けれどなにか大きく変わることも億劫だ。
 日々を、残り少ないであろう日々をどう過ごしていけばよいのかなどと大それて考えるのも億劫だ。
 何も不自由ないのだからこのままでよいはずなのだ。

 しかし?

 いつだか「なにか、趣味でもやってみたらどうです?」と心配そうな表情の蕗子さんに言われたことがある。
 毎度あいまいな返事するばかりでいたら、なにも言われなくなった。

 ーー趣味ね。

 時折思い出しては考えてみるものの、これぞというものはどうにも思いつかない。
 そういうものは自らが打ち込みたいからやるのであって、無理やり作るものでもなかろうと理屈をこねて言い訳にしてきた。

 なにもやりたくないというわけではないが、なにを手にしてもどこか遠くに感じる。
 新聞が伝える出来事も、昼に読んでいた小説の内容も、今の自分自身すらも他人事のようだ。
 からだと魂が分離しはじめているのかもしれない。
 こうやって人間を終えるのだろうか。
 そう思っても恐怖はない。
 やはり他人事のようだ。

 「ごはんが、できましたよぉ」
 台所にいる蕗子さんに声をかけられ、霞んだ目を他人事たちから離す。
 どうにも硬くなってきた足腰を従えて、食卓によっこらよっこら向かった。

 何十年もつづく二人のごはん。
 いつも通りの光景だ。
 席に辿り着くと、まずはご飯だけが運ばれていて蕗子さんはパタパタと忙しそうに次の皿を運ぶために台所へと戻る。

 居間と台所に仕切りはなくひと続きなので、一時は食事を運べるカートなどもあったはずだ。
 けれど、時間の流れに溶けてしまったかのようにいつのまにかなくなっていた。

 「車輪がね、うまく動かないのよ。なんとかならない?」
 今よりずっと張りのある声にそう言われ、ハッとする。
 そんなことはすっかり忘れていたのだ。今では内容も覚えていない輪郭のぼんやりとした新聞の活字、息苦しいネクタイの不愉快な感覚とともに思い出す。
 ーーもしも、なんとかしていたらどうだったのだろう。
 ーーそんなことを考えたところで、なにもわかりはしないし変わりはしないさ。
 黒々とした髪の男と、すっかり灰色に染まった男の二人が揉めはじめそうな気配を察して視点を現実に戻す。

 目の前に、湯気の立つ茶碗がおそろしくはっきりとした居ずまいでこちらを見つめていた。
 忽然と現れたそれは、無言で何かを訴えているようにも見える。
 「ある」
 信は形にせず言葉を口の中に落下させた。

 今まで気にしたことのなかった藍色の大きな椿の柄、そういえば自分の手に合わせたように馴染む大きさ、それに盛られたごはんのつや。

 新鮮な風景に大きく目を見開いた。柄なんてものがあることを知らなかった。
 なにも特別ではない、いつも通りの光景。

 「ずっと、これだね」
 「え?」
 すべての食器を運び終えた蕗子さんは、席に着こうと椅子を引きながら夫の顔を訝しげにまじまじと見た。
 「茶碗」
 「そうだけど、どうしたの?」
 「いや……」
 信は、一体自分が何を感じたのかを言葉としてまとめきれずにいた。
 しかし、いまここで溢れようとする言葉を留めては何かを逃してしまう気もした。
 ーー見ていなかっただけさ。
 「よく割れずにいたなと急にしみじみしたんだよ」
 ーーそれだけじゃないぞ。
 自分のなかにたくさんの言葉が反響している。
 「ああ……。今は気にしてもいないけれど、結婚したばかりの頃はとっても気をつけたわ。あなた、片方だけ割れたりしたら気にするでしょう」
 「そうかなあ」
 反論など思いつきはしない。
 「そうかもしれないな」
 そう言うと空洞のざわめきは収まり、コトリと茶碗を置くような音がした。
 信はじっと茶碗を見つめたままで箸すら持とうとしない。
 そこにいるどちらもなにが起きているのかわからなかったけれど、蕗子さんが見た限り悪い表情はしていない。

 ーーこういうことは、あとでちゃんとわかるものよね。
 蕗子さんはしばらく待ったのち、味噌汁の碗にそっと口をつけた。