仮庵

書きとめる仮住まい

読む子

子どもが字を読めるようになってから、これ幸いとばかりに自分が読みたい子ども用の本を見つけては居間に放り出してあったり、枕元においてある。

子どもの頃に図鑑やことばの本は読まなかったので母は主にそういうものを買う。
「ほええ!知らんかった!」ということがたくさんある。楽しい。

動物図鑑の索引 VS やたら詳しい父ちゃんの動物知識 のしりとり
子ども図鑑の巻末の国旗 一覧 VS 大航海時代(ゲーム)と三国志に出てくる国だけは詳しい父ちゃん

という母子でタッグを組んだ遊びは、父ちゃんのMPを根こそぎ削るので禁止になった(面白かったけど)。

絵本や児童書は実家から持ってきた、わたしが子どもの頃によく読んだものだ。

わたしは昔話が大好きだったので、そういうもんだと思って寝る前の読み聞かせをしようとしたら、我が子はめちゃくちゃ怖がりなので挿し絵が気に入っているももたろうやきんたろうなど、怖くないと決まったものしか読ませてくれない。

かぐや姫、浦島太郎や鶴の恩返しとかを知らないまま育つんだろうか? と「わたしの常識」を引き合いに出して不思議に思った。

しかし、知ってることがなにかよいことなわけではないし、知っておいてなんの意味があるのか? と聞かれたらわたしは答えられない。

「親として」これでいいんだろうか? と思う。だが「親として」とは一体なにであろうか。と言う自分もいる。
親である自分と、わたしという自分との意識がいまだ不一致である。

親の自分は、ある程度の「常識」または「体裁」を考える。
わたしの自分は、そのどちらも大切ではない。
真ん中をとったら、遠巻きな親心になる。

自分の好きなものがあるなら読めばいいし、読まなくてもいい。
母は物語と音楽に助けられた。今も助けられている。
子どもも自分でそういうものが見つけられたらいいな、とだけは思う。わたしの決めるものではない。

でも、心配になってついつい色々与えようとし、踏みとどまる。そういうものは自分で発見しなければなににもならない。

夕飯を作っていたら急に
「かあちゃん、おむすびころりんって知ってる?」
「知ってるよ。大好きだよ」
「おもしろいよね」
「おいしそうだよね」
「おもちつきしてるのいいよね!」
「ね!! ところでさ、読んだことないけどなんで知ってるの?」
「えー? ざっしにのってた」

おむすび、ということばは、なんておいしそうな響きなんだ! ということはさておき。
子ども用の雑誌に一、二本童話や昔話が載っており、わたしの知らぬ間に読んでいたそうだ。

我が子は、雑誌を隅から隅まで読むというわたしにはできない特技を持っている。しかも何度も読む。
どんなに怖かろうと雑誌に載っているものは全て読むので物語もその対象のようだ。
全然本を読まないわたしと比べたら、よく読む子だなあとひそかに感心している。

しかし、寝る前になにか読んでくれと言われ新しい話や緊張する話を提案すると変わらず「やだ」のひとことである。
怖いものは母が読むものではないらしい。相変わらずいつもの決まったものがリクエストにあがる。


私は、物語の中で旅をするのが好きだ。
真夏に真冬の話を読んでいて、寒くてたまらないのに現実に戻ってきたらめちゃくちゃ暑かったとか、昼間の風景の気持ちのままでいたら真夜中でどうしたらよいかわからない気持ちになったりだとか、のめり込んだ物語の世界から現実に帰ってきた時に「あ、わたしは生きてたんだな」と思ったりする。それがなかったら、いつまでも生きている実感はないかもしれない。

いま子どもはおそらく、無意識の独り立ち準備の繰り返しの中にいる。
そのひとつとして未知の物語を自らで読み、旅に出かけている。
母に読んで欲しいものは安心するために帰る場所なのだろう。いつだって帰ってきたらいい。

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