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仮庵

書きとめる仮住まい

「かーそる 2016年 秋号 No.1」を読んで。

読書

はじめに

「かーそる」を読みました。

「かーそる」2016年11月号 [創刊号] – Project:かーそる


なにかを書きたい気持ちがふくれたのですがあふれようとするばかりで正体がわかりません。まずはメモをとってなにが気持ちのふくらみかを文字にして確認してみることにしました。

メモからは書評が書けるものだとばかり思っていました。ところが、なんどパーツを並べ直しても書評と呼べるものにはとうていならなそうだとわかり、あきらめました。

この記事は読んでいくうちにわたしの中に浮かび上がってきたものを書くことにします。

「かーそる」とは、そういう雑誌なのではないかと思いました。読んだらきっとなにか書きたくなります。刺激というか呼応というか、そういうものです。
「特集1:脱 知的生産の技術」を読んでみて、わたしの日常生活と知的生産、知的生産の技術というものは、そーっとつながっているのだとわかってきました。

そーっと流れるものの根底には「幸福」ということばがあるようです。
と、いうことでふだんのフリースタイルなお話からは比べ物にならない長文となります。お付き合いいただけるとさいわいです。

わたしの機嫌と、家族

今のわたしは、家族の“ために”生きているところがあります。

わたしは自分勝手ですし、母としての自覚はうすく、ツマというよりはいつまでもオットとはともだちのような感覚で暮らしています。

しかし、自分のことよりも家族のことを考えていることにふとしたときに気がつきます。といってもハートフルな気持ちにはならず「わーお母さんみたいー」とどこか他人事のような下の句がつきます。

それはさておいて、ツマーハハーになってしばらく経ちますが、最近はオシャレなごはんを無理して作ることでも子どもにしてみたらやりたくないことを強制することでもなくピリピリしないできげんよくいることがツマーハハーとして大切だな、と感じています。

彼らは、わたしのきげんがよくないとしょんぼりおどおどするのです。わたしも彼らのきげんがよくないとどう接していいか困ります。

体調がよくないときはどうしたって上機嫌ではいられないですが、自分の不調に気づいたのなら「ごめんね!調子わるいから怒っちゃうこともあるかも!」とおどけていうことにしています。

そこでおどけると、あんがい怒ったりしないものです。伝えることにより自分の不調も受け入れることができ、伝えておいたことによる安心感がそうさせるのでしょう。

調子の悪い時というのは、いつもなら難なくやっていることがうまくできなかったりします。
最低限のインフラを機能させるために、洗濯を忘れないようにメモをしたり、事前に日々書きとめている買い物リストに助けられます。

なにもかも心配な気持ちに囚われたときは、いつも不安に思うこと(わたしの場合は鍵の締め忘れ)を出かける前リストに入れて確認します。
日々の自分のきげんを維持するために役に立つのが主に「書くこと」です。

このブログも実はそういった機能を担っています。

難しく考えずとも

日常的な知的生産の技術は、それとして一度観察してみることがなければ気がつきにくいものではないかと思っています。

「知的」とつくことによりカッコよく思いすぎたり、どういうものをそう呼んでも差し支えないのか判断に迷ったり、irodrawさんが『「知的生産のフロー」を育てる』の中でのおっしゃっていますが

どこかに 「正しい知的生産の技術 」や 「優れた知的生産の技術 」があるのではないか 、という考えを抱いてしまうかもしれません 。

これはわたしも思います。他の人のはなしを聞いて、じぶんのとはちがうなと思ったりすれば発信をためらってしまいます。

しかし、倉下さんが『知的よ、サラバ』の中で書かれた

「人(の脳)が関与した情報づくり」以上のニュアンスはそこにありません。

というひとことにより、もやーっとしていたわたしの「知的」に対する印象がとてもシンプルなものになります。

さらに「知的」を身近にひきよせることばがTak.さんの『知的はライフの中にある』に書かれています。

ひとにわかる形で提出

自分だって立派な「ひと」だ。

さらにcyoiyakiさんの『自分が他人に 基準は自分に』のなかにある以下の言葉もそうです。

「あたらしさ」の基準は、いっそ「自分」でいいじゃないですか。

わたしがブログをはじめてわかったことは、じぶんのいまの考えを文字情報でみると冷静になれるということです。

わたしのきげん維持にはもはや、書くことは欠かせません。たぶん、書くことをしていなかった昨年のわたしより今年のわたしのほうがきげんがよいです。

あたまのなかにことばをいれっぱなしにしておくともやもやしてきます。もやもやは、うじうじに変わります。書いて整理しスッキリすることにそれが無くなり家族への行動はよくなっています。

いっきさんの『技術ということ、生産ということ』の中にはこのようなことばがありました。

「心静かであること」の社会貢献。

これは社会貢献というおおきな尺度の場合にも必要ですが、わたしは自身の家族にたいしても大切なことであると思っています。
その「心静かでいられる」方法を探ることも、おとなのつとめであるかもしれません。

じぶんという基準で「あたらしさ」や気がついたことを書き出し、それをいまならブログなどで社会に出すことができます。いつか誰かのためになる日がくるかもしれませんし、こないかもしれません。

それを、やさしいことばで「おすそわけ」といってみるのはどうでしょうか。

じょうずにおすそわけしあえる関係はとてもフラットです。そこで小さなコミュニティがうまれ人とつながることができる。日本全国あるいは全世界につながれるグローバルなイメージがあたまにうかびました。

社会参加の方法にインターネットが加わった現在それはかんたんになりじぶんのいつわりのないことばを「おすそわけ」していれば、いつかだれかがわたしのことばをみつけてくれるとしんじていますし、わたしのようにもやもやしてきて考えすぎつらくなる気持ちをやわらかくできるなにかになることもあるかもしれません。

やりかたは人それぞれに

「脱 知的生産の技術」を読み進めしだいに思いはじめたことは、知的生産って人間活動だよね。ということでした。

みているもの、(生活のため)やるべきこと。そういったものは人それぞれにそれはあり、ちがうからゆえにそれぞれが自分の技術を持っていると思うのです。

わたしの機嫌維持装置である書くことはとても楽しく、頭の中がスッキリします。自分では気がついていなかったようなことが書くことによって発掘されることすらあります。しかし、この記事もそうですが日々書いている様々な雑文ですらとても時間がかかっています。

非効率と思われるかもしれませんが、この記事の初稿は手書きです。最初はパソコンの画面にむかって書きはじめたのですがどうにも書けませんでした。

まあ、楽しさに非効率もへったくれもありません。自分が気持ちよく楽しくいられる方法が、わたしの場合は手書きだったのです。試行錯誤の結果、そうなったのです。

Hibiki Kurosawaさんの『誠実なステップは 利己的なストーリー』のなかに

楽しさというのは、時間がかかる種類のものであるべきなのです。

ということばがありました。このことばで、いまのわたしの楽しさを伝えたくなりました。

めんどうそうな手書きですが、これがわたしの楽しさです。もりもり書き進むのはとっても楽しい。時間がかかっても、書いている・悩んでいる間のわたしには楽しさワクワクが爆発しております。それはそれは幸せなものです。
単純にわたしは何かを書くのが好きだったということでもあり、これは今年9ヶ月ブログを続けてみて気づいたことでもあります。

さいきんうまくいった書きものに「読書メモ」もあります。それこそこの記事のもとになっているメモです。もともと読書は好きでしたが、ただ読んでいるだけで読書メモはとっていませんでした。というのも他の人のメモ術にあこがれたり、参考にしましたがどれもそのままではうまくいかなかったからです。

じぶんのこれまでの失敗、じぶんの性格をよくよくみた結果、読みながら綴じていない白紙にペンを走らせるというシンプルな方法がいちばんうまくいきました。そこから、この記事の初稿も手書きにしてみました。

頑固にふだんのやり方に固執していたら、この記事を投稿することを断念していたかもしれません。

はじめて、やり方に決まったこたえはないのだとわかりました。人それぞれでよいのです。

ruu_emboさんが『「技術」から「技道」へ』の中でおっしゃっていた

「自分にとって心地よいやり方」

につながると思います。

参考になったり、それがどんなにカッコいいものでも自分にとって「心地よい」とは限らないのです。

心がふわっとふくらむ喜びみたいなのを感じられてはじめて、じぶんのやり方なのではないでしょうか。

そして、そのやり方というのは時間がかかってもじぶんでみつけるほかありません。じぶんはじぶんです。

こうじゃなきゃダメだといわれるすじあいは誰にもないですし、これが正しいと思うこともないはずなのですが、うまくいっている人がいるのにじぶんはうまくいかないとか、心地よく思えないというのはじぶんが変なのではないか? とわたしはつい考えがちです。

だから、わたしはるうさんの書かれたこの寛容でやさしさのあることばがとても好きです。

じぶんのうまくいくやり方があるというのが個性なのかもしれません。

そしてそれをじぶんであきらかにする・他人と共有するよろこび・楽しみも社会参加ですよね。

子どもと知的生産の土壌

Go Fujitaさんの『人間の条件?』でじぶんの意見をしっかり言える小学生のはなしがありました。

わたしはこの年になるまで、自分の意見をいうことはおそろしいことだと思ってきました。この記事を投稿するときもどきどきするに違いありません。

わたしの子どもが行っている園では、園長先生がよく「あそびのなかに、まなびがある」とおっしゃいます。

ほんとうに一日中あそんでいます。こっそり先生がサポートしてくれていますが、じぶんで考えてやりたいことをしているようです。(または誰かのたのしそうなあそびに参加する)

引っ込み思案としては自主性の問われるサバイバルな場所だなと思うのですが、母からくっついて離れなかった子どもが、いまでは先生もおいていかれるあそびを創造しているそうです。家と外との姿がまったく違うようで、保護者面談のときに生活の様子を聞くと毎回ビックリします。

安心できる環境で、季節をかんじ友だちとともにそのなかから学ぶ。本人たちは「学び」だなんて思いもしていません。

虫や花や動物をみつけたら、友だちや先生を呼んで見せあい観察。そのなかから図書室で調べはじめ誰よりも詳しくなる子がいるそうです。
一週間すべての時間を費やし、自分の頭の中にあるあそびを完成させるためにものつくりをしつづける子。運動な得意な子は泥まみれになってあそび、土の感覚や体の動かし方を覚えます。

彼らは毎日毎日楽しい「あそぶ」ということをしながら少しずつ成長していきます。

子どもは、じぶんの学びの場をじぶんで決めることができません。基本的には入園先を親が決めます。わたしは、ほんとうならじぶんで好きなことのために決められたらいいのになと思いますが、それはちょっと難しい。

そうなると、子どものために「場」を設けてあげるのがおとなの仕事。疑問・知的好奇心・友だちとのつきあい方、そういうものの素地をあそびの中で体感させてあげられるような場です。

じぶんの意見を言えるような自立した知性は意見を組み立てられるような教育も必要でしょう。
幼児のうちはまず、もっともっと前提となる言っても大丈夫なのだという安心感。互いに受け入れるには信頼感が必要です。

そういったわかりやすいわけでもなく押しつけなわけでもない体験の場を、こっそりおとなが用意してあげることが大切なのではないかと、我が子を見ていて思います。

子どもは安心の中で多くの個性があると自然に認識していけたらいい。その次の学習の場にすすんだとき、からだに染みた「あそびのなかのまなび」という幼児期の幸福はきっと役に立つはずです。

豊かな学びって、オトナに「おしえられる」だけではないと、わたしは感じています。

根底にある「幸福」

はじめのほうにわたしの日常生活と知的生産というもの根底には「幸福」が流れているようだと書きました。

倉下さんの「知的よ、サラバ」のなかに

人が人とつながり、社会とつながる。そのための技術なのです。そして、それは人生を豊かにする技術です。

ということばがありました。走り書きのメモに「幸福について」とあり、直感で思ったこのことばに説明をつけて終わりにしようと思います。

人間の生活のコアには「幸福」があるのではないかと思うのです。

誰も進んでは不幸になりたくない、はずです。
幸福になりたいとはっきり思わずとも、幸福のコアのまわりには「たのしさ」があるとわたしは考えます。

かーそるの執筆者の方々の「知的生産の技術」にはそれぞれにたのしさをお持ちなのではないでしょうか。

そして「幸福」からくる欲求として「たのしさ」をすすみ、またそれは「たのしさ」から「幸福」へと還っていきます。

雑誌としてかたちになったそれら「たのしさ」を誰かが読む。

「たのしさ」によって発生した自然な人と人とのつながりが「知的生産の技術」をベースにうまれる。

人と人とがつながるということは、受け入れることであり授けることでもあります。

それはじぶんにとっての幸福となりえ、また他人にとっても幸福となりえるのではないか?と考えます。

たのしさの先には、夢や生きやすさなどを求めているかもしれません。

それをただの空想や理想でおわらせず、これに現実性を与えるもの。

それが、かーそるで各執筆者シェアしてくれた「知的生産の技術」であるなと、わたしは読んできました。

自分、そして他人をも幸福とするのが、ほんとうの幸福であるとわたしは思っています。

おわりに

なにかおもしろいものが書けたかどうかはわかりませんが、これが特集1をよんで、わたしの書きたくなったことでした。

メモをさらにパーツにして並べはじめたときの手のつけ方がまったくわからず大変でしたが、拙いながらも長文にチャレンジしてみました。

長々と書きましたが、ここまでお付き合いいただいている方ありがとうございました。

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