読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

仮庵

書きとめる仮住まい

半袖か長袖か

数日おきに雨が降り、そのたび寒さが増していく。
この時期は日中と朝晩の寒暖差がはげしく、着るものの選択に困る。しかし、20℃に至ることはないようなので、一日中長袖でいることと決意した。

子どもたちは長袖を嫌がり、朝の身支度のたびに大騒ぎになるという。親に長袖を着せられ渋々出かけてゆく子もいれば、半袖で押し通す子もいる。服装の件で一悶着あった子どもは仏頂面である。

服装にこだわりがあり親の助言に聞く耳を持たない我が子も、先日まで半袖短パンであった。しかし、先日「おなかがいたくなった」ことで、天気予報を確認し、自ら長袖を選んで着るようになった。ただし、遊んでいる間はシャツ一枚で過ごしているらしい。
子ども時分、服装に頓着しなかったわたしは引き出しにしまわれた服を上から順に着ていったので長袖か半袖か論争をしたことはなかった。

粉雪舞う季節に半袖短パンの(たいてい何故か嬉しそうか、全力で走っている)男子を見かけたときは、子ども心になんて勇敢なのかと感動したものである。単にこだわりがなく、指摘もされなかったからそのような姿であったのかもしれないが、大人にお仕着せられるのではない姿に自由を感じた。わたしはすこし憧れたが、その時期にはすでに半袖も短パンもわたしの預かりしれぬ場所にしまわれていた。

むかしだからではなく、今でも年に一人は見る。そのたびにギョッとするものの、今年もとうとう一人みた! とつい思ってしまう。二人は見ない。なんとなく、年に一回見ることによりありがたい気持ちになり同時に全身に寒さが突き抜ける。

大人がみたら悲鳴をあげるであろうが、容赦も加減もなく教室は暖房でどんどん暖められ、ふうふう言いながら汗をかいていた覚えがわたしもあるし、ふつうの速度で歩くだけでも厚着のせいで暑く重たくうんざりしていたのだから、そのような思いきった選択をする者もあろう。

その日あった身体の不快も家に帰れば忘れてしまい、翌日もその不快に身を投じる。せめて長袖の下に半袖も着て調節できるようにしたいなどと気の利いたことはついに言わなかった。そんなことは思いつきもしなかった。

本当に寒くてしかたがないなどとはとうとう思わないままに春になる。

20歳も近づく頃、いくら着込んでも寒いものは寒いと思うようになった。毎日寒ければなにかきっかけみたいなものを感じたかもしれないが、春夏を過ごし気がついたら寒がりになっていた。

いつの間にか寒がりになってしまった大人たちは、子どもの頃は寒さなど感じなかったということを忘れて二言目には「寒い寒い」と言い、子どもに厚着をさせようとする。子どもは反抗する。雪が積もる頃、その上で遊び転げるためにツナギを着るようになるまで、このやりとりは続くのだろう。

仏頂面のよその子に「お。半袖か。暑いのか?」と聞くと、黙って頷く。強がりでもなく、本当なのだろう。「まあ、子どもの時ってのは暑いよな」と言うわたしはもうマフラーを巻いている。
冬の暑さを感じなくなった大人のひとりだ。

広告を非表示にする