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仮庵

書きとめる仮住まい

愛情と存在感

雑記

言われてうれしいことばを子どもにかけてあげる。というような話になって、子どもらの突拍子もないうれしいことばを面白おかしく聞いていたのだけど、ふと、自分がかけられてうれしいことばはなんだろう。と考えた。

まったく思いつかなかった。

褒められたことは少ないながらあるけれど、そのようなことばは大体戸惑う。いったいどの型として受け入れるべきか迷う。わたしは暗黙的型変換ではないようだ。

わたしが聞いたものは、相手が発したそれと合致するのだろうか?と困る。わたしに対して打算なんてないのだから、すなおに喜んでおけばいいというのに困っているうちからだに染み込む前に眼前から消え去ってしまう。

本来はそこまで考えずともよいのだろう。ただ、それができていたらこんなに相手からのことばをおそれてはいない。

よきことばをかけることは悪いことだとは思わないし、そうしないと相手にわかってもらえない。単にわたしが戸惑ってしまうというだけである。

そもそもなぜ、「うれしいことば」をかけるのかという話を聞きそびれたのがいまとなっては悔やまれるが、流れから考えるに愛情表現や子どもが自信を持って育つためなのだと思う。

ただし、やみくもに言えばよいというものではないだろう。それは単純に親子間のコミュニケーションのきっかけというだけである。

うれしいことばが愛情のカタチだったり自信をもてるというならば、わたしはどうでもいいバカ話をしあえる空気や気兼ねなく笑いあえる空気に、愛情を感じ自信をもてる。

たとえそれが、酔っ払った先輩のガンダム熱弁、好きなアーティストやバンドの濃い紹介だろうと。なんの話だったかわからなくなったことばが絡み合ってぶつかりあってをしながら紫煙と共に中空に消えていく。

そういう場がわたしにとって人生ではじめて感じた愛情であった。

そこで感じたのは、ここにいてよいのだ、という自分というものの質感と存在感。なにもいわれずとも大人にそっと見守られている気がする安心感があった。

しっかり受け入れてくれる人たちは、とやかくもいわないし面倒見がよかったり、親切にしてくれるわけでも甘えさせてくれるわけではない。むしろ、やたらにそうされたら、あやしいとわたしは思う。

そこにいても特になにを言うわけではないし、けれどふつうになんのてらいもなくぼそぼそと話してくれて、やらかしたときにはガツンと叱ってくれるアドバイスしてくれる、くだらないことでも楽しみあえる人は、受け入れてくれている人だと、わたしの経験から思う。

その頃わたしは20代前半であった。存在してよいのだとほっと胸をなでおろすには遅すぎたとも思うし、そうでなかったとも思う。

ことばをかけてもいい。ことばというカタチにしてはじめて言った本人がハッと気がつくことがある。人間同士、親子間の愛情ならばいずれの場合も大事なのは、自分の存在を受け入れてくれることなのだろう。気を抜けば透明になってしまう自分の存在を明らかにしてくれるもの。

それがことばであろうが、空気であろうがその子どもが受け入れられるならなんでもよい。

子どもだからと、こうすればよき人に育つはずだと言われた通りとか思い込むのではなく、その子どもの存在をしっかりみてその人にあった手法を選べばよいのだ。

子どもの間、存在感を付与できるはおそらく親しかいないだろうし。

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