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仮庵

書きとめる仮住まい

日々

雑記

きょうは、どの本を読もうか? と本棚をながめる。積んである未読はたくさんあるのに、むかし読んだ本を読みたくなった。

くりかえし読んだので、すっかりゆがんで色も変わってしまった懐かしい本を手にとる。

なんども読んだはずなのに、姿かたちのはっきりしない短編集。

けれど、たしかに覚えているフレーズや風景。想像で感じた肌への温度とか、目の前に広がった色。まるで「思い出」のような本だな、と思う。

子どもを「どこかに連れて行ってやらなきゃかわいそうだ」「思い出作り」と、長期休みのたびに実父は言う。

ふだんはやたらにものを買い与えようが食べさせようが好きなようにしてもらうが(合間合間に釘はさすがまったく聞いていない)、わたしはその点だけは反論する。

「わたしは、学校から帰ってくるといつも裏庭にいるじいちゃんが、栗を焼いてくれたこととか、勝手口からみんなでむしりとってきてストーブのそばで食べたコマイのこととか、土曜日にいく銭湯のことのほうがよっぽど覚えている」

父の言う「思い出作り」に既視感を覚えることが、学校の行事などで「思い出に残る◯◯にしよう」だ。

思い出なんて、もっと自由でいいはずなのにひっぱられるような思い出作りということば。辟易することはなかったが、ひそかにうすら寒さだけは感じていた。

「わたしは、おかしいのだろうか」と思いながら長らく過ごした。もし、おかしいのならなんだかここは生きにくいな、と思ったりした。口にはだせなかった。

結局、その近辺でわたしに残ったのは空の色とか嗅いだ空気の匂いや肌触りばかりで、肝心な行事のことはやはりほぼ覚えておらず、誰かに聞いてもやっぱり思い出せない。


なにをおぼえているかなんて、人それぞれだから子どもはもしかしたら特別なことの方が思い出になるかもしれないけれど、思い出は作るものではないだろう。というのがわたしのーーふだん多くのものにまったくこだわりはないのにもかかわらず、そこだけはーー意固地な思いだ。

あっ。と思う間もなくシャッターがきられて残る、ある風景。
過ぎ去ればぼやける日々の連続のなかにくっきり残ったそれが思い出で、それらは大切に思われたり表現したりしたくなる。

血眼になって集めるものでもなく、何かがトリガーになってある瞬間にぽっかり浮かんでくるもの。なんでここが残ったんだろう、と自分でも不思議に思うところが残っている。

わたしは、なにかと日々を書いているけれど、とりこぼしたものもたくさんある。ぜんぶはもっていかない、ちょうどよい量を気がついたらもっている。大事だなと気がついたらほっこり思いをはせる。久しぶりに手にとった懐かしい本のように。

それくらいがわたしは気に入っている。

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