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仮庵

書きとめる仮住まい

ひとのしあわせを願う

雑記

なぜ、これをできないことがあるのか。と、ときおり考える。さきほど再び考えていたので書いてみている。答えはまだ持ち合わせていない。

まずはこの場合でいう「しあわせ」とはなにかから書かなければならない。ここでは世俗的な、あかるさを感じる前向きな「努力」や「頑張り」がむくわれることや、世間一般で用いられるおめでたいこと。としようと思う。

前進する姿を、なぜ妬むのか。さげすむのか。憎悪するのか。足をひっぱりたくなるのか。

この事はよく、事例を取り出してはこねくりまわしているが、いくつかの想定はできるし、乱暴に一括りにすることはできても答えをひとつにはできない。ナタを振りおろし切断するように一旦の帰結はしても、ぺちぺちそれらを再び接着しなおして、つい考えている。考え足りていないし、納得していないのだろう。

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なぜこんなことをときおり考えるのかというと、わたしに友達というものは片手で数えられるほどしかいない。実際にはわたしから連絡するのは1人だ。

結婚したと同時にみごとにいなくなった。風貌からして(大量に草を生やしたい部分である)まったく結婚できそうにないと思われていたのだろうと想像するのがいちばんしっくりくる。

なるほど、「結婚=幸せステータス」という価値観をもっておられ、かつ自分より明らかに下だろと思っていた人間があっさりそれを得たのが気に入らなかったのだろう。なんだかいろいろあったが、めんどうになったのでその場をおいとましてきた。

けっきょく、「ほんとー! よかったねー」程度の気楽な声をくれた人だけが残った。それでよいのだ。

(ところで、なぜ結婚したら「おめでとう」なのかがよくわかっていない。でも、おめでとうは明るいことばとして受けとれる。もっと具体的に「オット氏と一緒にいることを法的に契約する行政手続きの無事完了を祝す」なら全力で「ありがとう!」と言える。か?)

この話が、表題の件を考えはじめたきっかけになる出来事であった。

とくに不幸せではない。こんな文体なので深刻そうに思えたらそれは誤解である。めっちゃお気楽。理由に見当つけられれば、スッキリする。

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こんな個人的な話よりもっと深刻な「ひとのしあわせを願えない」がある。それらは往々にして一気に片付けられない。わたしの掃除手法のように手当たりしだい袋につっこんで、該当するゴミの日に出しておしまい。さっぱり爽快。というわけにいかない。

そんな、願われなかった人に出会うと話を聞くくらいしかわたしにはできないと感じる。なんとも歯がゆい。

すこしでも、ひとのしあわせを願える気持ちを握っているのならすこしずつ、小さくても、弱くても発していくしかない。

大きな悪意や騒ぎに対してもそう対処するしか、そうすることが一番確実なのではないだろうかと感じることが近年多い。

 

わたしは、自分や人のこころにひとのしあわせを願えるようなまろやかな部分を見つけたい。あるひとがしあわせだというのならそのしあわせは、おくせず喜びたい。伝えられるなら、伝えたい。

ときたま、ふとそう思っている。

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