仮庵

書きとめる仮住まい

わからない。をみとめる人

毎朝、ローカル情報番組でちょっとしたクイズが出る。

その時間はたいてい朝ごはん中なので、家族そろってそれを観ている。わたしだけはご飯に夢中なので五分五分だが。

わかりやすい日と、大人でもすごく難しい日があるのだが、我が子だけは毎日「わかった!」と言う。
正解をたずねても濁すので、実際にはわかっていないのだろう。自信がない場合もある。自信のある日だけは正解を教えてくれる。

弁がたつようになった2歳あたりから「知らない・わからないのが恥ずかしい」思考がかいまみえていた。だからなのか質問はすごく多いし知ろうとする姿勢はよいことだと思ってきたが、「わかっていないのに、わかっているふりをする」事も多くなっていた。

人間には、知らないことがあるというのを認めたくない本能があるのかなー。などと観察してきた。「わかっている」ふりをするときは、すごくかっこいいポーズをするので、ついこっそり面白くなってしまう。

ところが先日のことだ。何があったのかはわからないが朝のクイズを観ながらこどもが「わからないな……」とつぶやいた。

両親は「すばらしい!」と歓喜に沸いた。当人は、どうしたんだこの親はという表情。「わからないってすなおに言えるのは、ステキなことだよ!」と伝えたが「へー」で終わった。

解説を加えようかとも思ったが、あちらから「なぜ?」と尋ねてこないうちは、耳に入らないことを両親は知っているので全員の興味は次のコーナーに移る。


かっこうつけて、なんでもわかってるふりをするのは、かっこうわるいと思っている。生きていて「わかること」なんておそらくとても少ないのに、体のどこかでは気づいていても、ふりをやめられない事もある。

周りが「そんなこともしらないのか」「なにもしらないんだな。だからなにもできない」というような言葉で、ふりをやめられないようにしてくることもある。

わたし自身、かっこうをつけるのをやめたのはそう昔ではない。思えばそういうかまえであったことにより、どれだけ損をしてきただろう。過去の自分に往復ビンタしたいくらいだ。

けれど、それは教えられたり諭されたりするのではなく、自らで知ったり気づかなければ意味がないことだというのも、経験で知っている。

わからないと認められるということは、次に進めるということだ。
不思議と、わかっているふりをしている時は知りに行くのをためらう。こっそり調べればよいと思うのだが、ふりをしていることが後ろめたく、胸を張って知りにいけないのかもしれない。目隠しをされたように、なにも見えなくなる場合もあるだろう。

ところが認めたとたん、「そもそも、これってどういうことだ?」といくつもの疑問がわきはじめ、自信を持って調べに行ける。そして、ワクワクするものはどこにでもあることに気づくこともできる。目の前が明るくなる。

わからないをみとめることは、正直であることは、自分を成長させてくれると思うのだ。
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