仮庵

書きとめる仮住まい

3月のハイライト

‪「チームとは、みんなでそれぞれに得意なこと・苦手なことをおぎないながら仕事をするために作るんだ。(いや、うん、ただの理想かもしれないが……ええい!)
ひとりでがんばらなくていいんだ。自分ががんばらなきゃダメだって思わなくていいんだぞ。みんなで分担してやるんだから。え? ◯◯がやらないから? んなもん、気にしないで自分のやることだけやればいいっしょ。誰それのぶんまでやろうと思わなくていい。そこまで責任感に追われたらあぶないぞ。そこまで追い込まれてるなら休め」

と、テーブルの下でヘッドホンしてiPodで音楽を聴きながら引きこもっている幼児に言うなど。

納期を乗りこえたあと、半月ちょっと気管支炎となり、薬を飲ませるのがたいへんであった。
ゼリー状オブラートをスプーンに乗せる加減がむずかしかったが、3月中にマスターしました。

(何語だったとしても)文字になっている食べ物は最高。

調べ物をしていて、Webページなり参考文献が英語だったりすると「ウッ! さ、さようなら……」となるのがいよいよつまらないので、英語を0から学びはじめて2カ月。

0なのはなぜか。中高での記憶は霧散したからだ。でも、高校国語と歴史だけは受けた記憶はあるよ。楽しかったよ。

わたしは、文字情報はそれなりには理解できるが(ものによってマッピングがうまくいかないときもある。そんなときは分解して並べなおす)人から口で説明されることは、その人の言語を聴くための(自分でもよくわからないけど頭の中の)調整をしなければ(いまも)理解しにくく、最終的に学生の頃は聞いても耳に入ってこないか、理解できなくてそわそわするか、パンクして妄想の世界に逃げるか、板書を頼りにしていた。

高校の頃はどのくらいの期間勉強すれば、及第点になるか? という実験とゲームをしていたので成績はあがったがその場しのぎだったのですべて忘れてしまった。

ひとの言っていることを上から順番に追っていると頭が容量オーバーになるので、赤くなっている気がするところだけ抽出して要約し(にこやかに)説明した上で確認と結論あるいは代替案を出せばなんとかなる(むしろ信用してもらえる)ことは社会人になって取得したワザだが、今でもたまに「ほんとうに間違ってないかしら?」とそわそわすることはある。

いまならそれがわかるが、子どもの頃はまったくわからなかったから、先生の話のわからない勉強のできないダメな子だと思っていた。
授業に向いてなかったんだな、と今になって気がついてからは、たぶんただのダメな子っていうわけでもなかったんだな、と自信が回復しつつある。

独学は険しい道だな、と思いつつも楽しくやっている。辞書を開いて「文字がいっぱい。ステキ」と、ときめくことができるようになったので、やっと軌道に乗った気がする。

焦って先に進んでもよいことがないのは経験上知っているので、ひたすら基本を上塗り上塗りして同じところをぐるぐる回っている。ぐるぐるしているが、見落としていたり前に理解できなかったことが「こういうことか!」と気がつくのが楽しい。


机に向かえない時間は、Simple English Wikipedia で食べ物の記事ばかりを読んでいる。
Cooking や bread の記事をぐるぐるしている。同じ記事なのに何度読んでも「ふおお!パン!!ふこふこか?かたいのか?焼ける匂いがする気がする……」と思っている。わたしは幸せ者である。

日本語だろうと、英語だろうと、文字になっている食べ物は想像することはなんともしあわせだ。
英語だと、いまだ食べたことのない味のパンかもしれない!などと妄想ばかりしている。
食べ物の歴史の本が読みたい。

仮庵の、ちっさい気になること。

  • なにかひとつのこと(例えば趣味の1つなど)に取り組んでいると、他のこと(他の趣味など)がまったく手つかずになるのだけど、他の人はどうなんだろう。

と、たまに思います。
それがいいかわるいか、ということではなく
わたしのささいな気になることです。

わたしの趣味は、編み物と読書とその時気になってしかたがないことを勉強することなのですが、年間その3つがぐるぐるまわっております。

孤独

今年は雪解けがはやい。
毎日プラス気温で、道路わきに積もっている雪も残りわずかである。

冬用にちぢまったからだがゆるんで、家族はみなどうにもぼんやりしている。

わたしが出かけると言っても、動きたくないようで「いってらっしゃーい」と言われ、夕方にひとりでかけてゆく。

夕日がのびのびしている。夕日も冬の間はからだがちぢこまっていたに違いない。夏至へむけて少しずつ柔軟体操でもしているかのよう。

それを見ているうちに、ぐぐぐっと胸から嬉しさがこみあげてくる。

なぜ、こんなにも嬉しいのだろう。
雪解けや、春の訪れからの嬉しさだけではない。
「いまのわたしは、孤独なんだなあ」
そんなことばが思いついて、トトロみたいに目がくわっと開く。さらに嬉しくなる。

たまたま一人になり、目に入るもの・聞こえるものをことばで共有する者がいない。それでもいいんだ、と思う。

一人でいる駅のホームが好きで、一人でいる大きな街の中が好きだ。
家の中にひとりでいるのとは違う孤独がある。
多くの他人の中、ざわめきのなかにぽつねんとしていることが、すごく好きだ。
そこは、孤独であり、自由なところである。

昼と夜のさかいで、存在すらあやふやになりながら、自分にしか感じられない悦びを抱く。
悦びで充ち満ちる。

カッコ()

久しぶりに、ガツンと頭に衝撃が走った。

なにかを子どもにきかれ、説明すると、
「あー。そうかー」
と言うが、
「この説明で、わかったかしら?」
と言うと
「わからない」
という。

わたしはこれがふしぎでしかたがなかった。
いったい、これはどういうことなんだろう? と思っていた。

納得しているようなのだけれど「わからない」。
これはいったいどういうことか。

わたしの説明不足かしら? ちょっと難しいことばが多かったかしら? と説明を重ねると「はなしながい」と言われる。


先日、チームとはなにか。ということを説明をしたとき
「あー!! そっかーー!!」とすごく目からうろことばかりの反応だったのに
「わかった?」
と聞くと
「わからない」と返された。

ここで、わたしはやっと子どもの「わからない」の中身が見えた。
「(自分で実証or経験していないから、まだ)わからない」なのだと。

わたしも「わかった」ではなく
「(意味)わかった?」と聞いているから、ズレが生じていたのである。


わたしも「子どもが説明だけではなく、実証or経験を伴わないとわかったとは言わない」なんて思っていなかった。すごく甘かった。


あるごくごく当たり前だと思っていることを、コアイメージを省いてことばにしたら、お互い全然違うことを言っているように思えて、話が盛り上がりすぎることがオットとはよくある。

なにか違和感があるとわかった段階で「なんか違わない?」とお互いのコアイメージを机上に出したら「あー!!もともとが違う!!」と笑いあったこともあったし「言ってることは同じなのにそこまでの考え方のプロセスが違う!」ということもある。

それがわかってきたので(約10年かかった)、場合によってはお互いに理解できるまで抽象化して話した方がよいときもある。

そちらには注意をはらっていたが、いよいよ子どもにもカッコがあることを、母は気付いちゃったのである。

子どもが寝た後「衝撃的すぎた」としばらく考え込んでいたら「そんなにショック受けないで〜」とオットに言われたが、ショックを受けたというよりは、感動に近い。
目に見えないことばに、カッコ書きが見えた!! という発見だったのだもの。