仮庵

書きとめる仮住まい

カッコ()

久しぶりに、ガツンと頭に衝撃が走った。

なにかを子どもにきかれ、説明すると、
「あー。そうかー」
と言うが、
「この説明で、わかったかしら?」
と言うと
「わからない」
という。

わたしはこれがふしぎでしかたがなかった。
いったい、これはどういうことなんだろう? と思っていた。

納得しているようなのだけれど「わからない」。
これはいったいどういうことか。

わたしの説明不足かしら? ちょっと難しいことばが多かったかしら? と説明を重ねると「はなしながい」と言われる。


先日、チームとはなにか。ということを説明をしたとき
「あー!! そっかーー!!」とすごく目からうろことばかりの反応だったのに
「わかった?」
と聞くと
「わからない」と返された。

ここで、わたしはやっと子どもの「わからない」の中身が見えた。
「(自分で実証or経験していないから、まだ)わからない」なのだと。

わたしも「わかった」ではなく
「(意味)わかった?」と聞いているから、ズレが生じていたのである。


わたしも「子どもが説明だけではなく、実証or経験を伴わないとわかったとは言わない」なんて思っていなかった。すごく甘かった。


あるごくごく当たり前だと思っていることを、コアイメージを省いてことばにしたら、お互い全然違うことを言っているように思えて、話が盛り上がりすぎることがオットとはよくある。

なにか違和感があるとわかった段階で「なんか違わない?」とお互いのコアイメージを机上に出したら「あー!!もともとが違う!!」と笑いあったこともあったし「言ってることは同じなのにそこまでの考え方のプロセスが違う!」ということもある。

それがわかってきたので(約10年かかった)、場合によってはお互いに理解できるまで抽象化して話した方がよいときもある。

そちらには注意をはらっていたが、いよいよ子どもにもカッコがあることを、母は気付いちゃったのである。

子どもが寝た後「衝撃的すぎた」としばらく考え込んでいたら「そんなにショック受けないで〜」とオットに言われたが、ショックを受けたというよりは、感動に近い。
目に見えないことばに、カッコ書きが見えた!! という発見だったのだもの。

いやなこと

連日「たたかれた」と子どもがこぼすようになった。
連日なので、毎日叩かれているのか? と思ったのだけど、こっそり母の中で整理するとどうやら1、2回のように思える。

ショックだったのかしゃくぜんとしないのか、連日こぼすうえに顔色も悪く、疲れた感じになっていき、寝つきも悪く夜中も起きてくるなどストレスを感じているようなので、真剣に聞くことにつとめてみる。

しかし、聞くだけではスッキリしないようで毎日「たたかれて、いやだった」と言う。なので、デストロイヤー母の解決策を述べるも意見は合わない。

もともと、意見が合わないことは知っているので他人の考え方というものを投げるだけで、そこですべて解決するとは思ってはいない。
とりあえずそういう考えもあるんだよ、というだけ。

最後は抱きしめて、二人でうふうふして話は終える。

✳︎

はたして、子どもの中でなにがひっかかっているのだろうか?

生き写し原本のオットに聞くも、原本はそういった他人との衝突をなんとかすることは早々にあきらめたらしいのでどういうプロセスであきらめたのかという情報を収集するにとどまる。

オットとの会話中に長考していると、ふと
「たたかれた」ことをどうこうしたいわけではないのでは? と気がつく。
その仮定のもと「気持ちが整理できていないだけ」なのではないかと考えた。

頭の中だけで整理できないのなら、可視化だよな。とは思ったのだけど、幼児にノートに箇条書きで羅列しろというのも無理がある。

あと、いやなことだけを可視化するのもなんだかな。と思ったので、中心に子どもの名前を書き「たのしいこと」「すきなこと」「いやなこと」「さいきんできるようになったこと」「がんばってみたいこと」という項目を作ってマインドマップもどきを試してみることにした。

聞く順番は、上記のとおり。真ん中でいやなことを聞いてみた。
最初にたのしいことでテンションをあげて、最後も自信のもてる元気な感じで終わらせる。これならどうだろう?

それを試す前に、まずはこの表がなにをして遊べるかを見せることにした。

子どものすきな動物を真ん中において、その動物が「どんな」で「なにをした」という遊びからはじめた。(途中で「どこで」などもふえた)

挙手制にしておき、模範的回答をオットにまかせ、わたしはありえないおかしな動物にして遊ぶ。子ども負けじと面白いことを言おうとする。

ハチワレのーネコがーねむっている。
コンビニでーネコがーアイスを買った。
山でーネコがー宇宙と交信している。
とか、そういうことば遊び。

めちゃくちゃおもしろかったらしく、A3の紙がぎっしり文字で埋まり、自分でも書いてみたい! と言ったり、なかなか白熱した遊びとなった。

これを1日やって、翌日にいよいよ子どものもやもやを可視化してみる。

「昨日やった遊びあるじゃない? きょうは、◯◯でやってみようと思います」
「やるやるー!」
と、やはり前置きしておいて正解だった。

質問のしかたが難しいな、と思ったのだがとりあえず「◯◯のなかで、たのしいことはなんですか!」「はい!」
と、前日と同じ挙手制にしてみた。

いやなことは「たたかれたこと」と「ねむいこと」。たたかれたことは、日付まで覚えていた。
それをどう解決するか・折り合いをつけるかは別にして、たたかれたという事実だけを二人で共有するにいまはとどめてみようと思う。
じゃあ、それをどうする? までは聞かない。

わたしはこういうことをすぐに解決したくなるものだけど、子どもはわたしじゃないので時間がかかるかもしれないし、解決したくないかもしれない。そこらへんは、解決策を相談されたら一緒に考えようと思う。

いやなことよりも、たのしいこと・すきなことの方がたくさんあり
「◯◯は、たのしいことと、すきなことがたくさんあっていいね!」
「うん!あとね、あれもたのしいんだよー」と、そっちの方がたくさん出てきた。



これをしてどういったことになるかはまったくわからなかったのだが、その日以来「たたかれる」とこぼすことはなくなった。
文字にしたことによって忘却したのか、可視化されてスッキリしたのか。

ひっかかっていたものは、たのしいこと・すきなことの多さに比べれば小さなものだったのだろうけど、それは硬くていつまでもゴロゴロとしていたのかもしれない。そりゃあ、安眠もできない。

とりあえず、寝つきが悪いことも夜中に起きてくることもなくなり、毎日寝相悪くスヤスヤ寝ていてちょっと安心はしている。

不機嫌なアート

子どもたちの制作の現場を見せてもらう機会があった。

その中で一人、じぶんでは処理しきれない複雑な感情を「ちゃんとやらない」であらわしている子がいた。
わたしは心のなかで「だせだせ。どんどんだせ。出せるうちがいいぞ!」なんて思っていたのだけれど、逆さまに貼ったオブジェクトはなおされたりなんだり。
「やらない」んじゃなくて「ちゃんとやらない」だった。ここが感情のポイントだよな、とみていた。

わたし個人としては、そうやって作った制作物もいいんじゃないかなあ? と思う。

不機嫌に作ったものは、その時の不機嫌が反映されていて、家に持ち帰って目に入った時なにかを考えるかもしれない。
ぶん投げたっきり、もう見ることもないかもしれない。
わたしの考えも及ばないようないろいろな可能性のある一作品だ。

わたしは、天邪鬼なことをしたっていいんだぜ。だってそういう気持ちだったんだろう?
と思うのだけど、そうはいかないのかもなあ。と考えてしまうと、ことばにするのはむずかしい複雑な気持ちになる。

わたし自身が「ちゃんとする」ということが得意ではないし、まだまだお子ちゃまで「わかってねーな」と言われる考えかもしれない。

取り組みのねらいに、その時の感情をぶつけること。というが含まれていないのなら致し方ないのかもな。とも思うのだが、作るものに、見本はあっても正解はあるのだろうか。

などと、短時間ながらいろいろ思ったのであった。

地味でもひかりを発見する日々を。

この記事を読んだ。

劇的は遠回りで、地味は近道。 - 日々の食卓から

地味が近道で、いい、ってことは案外たくさんあるはず。

自分のごはん作りにしろ、子供の成長にしろ、日々積み重ねることというのはとても地味だ。
自分が得たいスキルを取得するまでの道のりもそのように思う。

ただ積み重ねた地味は、かんたんにはゆらがない大事な柱のひとつになる。
その柱があるゆえに、あらたな挑戦もできるだろうしちょっとした冒険もできる。
もしダメだったら帰ってこられる柱があるのは強いなと思う。


それに、ある時急に昨日までできなかったことができるようになった子どもの成長だとか、疲れて半開きだった目がかっぴらくくらいおいしいご飯が炊けただとか、日々が地味だからこそピカッとひかる喜びに出会えることもある。

華やかなことばかりだと、そのよわよわしいひかりを見逃してしまう気がするし、地味な日々に自分で呪いをかけていると、不満しかいだけない。

遅々としていて前進をわかりやすく感じられず、つまらないと感じたものにたいして、どれだけおもしろくなるようにできるか、という探求も地味ながら、楽しい。

そこいらにある地味のなかにあるものは、きらっと光ることがたまにあるけれど、気がつけるのは自分だ。気がつくか気がつかないかは自分自身の目にかかってる。

鬼がくるまで

「なあなあ。先生に言われたんだけど、ゲームできないんだって?」
「うん。こわい」
「訓練する?」
「それよりもんだいは、せつぶんだ」
「おっ……おう。あ、いわしとひいらぎの防御アイテムでも作るか……?」
「ひいらぎってなに?」
「クリスマスの葉っぱ」
「あー」

◼︎

ドッジボール、うまくなりたい」
「よし!特訓だ!」

……

「なんだ、よけれるじゃん」
「うまい!?」
「うまいうまい。ていうかだ。母ちゃんは親だから容赦なく投げつけるけど、先生とか、友だちとかはこんなに投げてこないから大丈夫だよ」
「やってるのは、ころがしドッジボールなんだよね」
「……えっ。それだったら問題ないから。普通のドッジボールだと思って、普通に投げつけてたわ」
「もっととっくんしよう!」
「疲れるわ……」

◼︎

「もし今日できたら、母ちゃんにいちばんに教えてな」
「うん」

……

「きょう、ドッジボールできたよ!!」
「やったじゃん! あとは鬼だな」
「もう、ドッジボールもできるし、よゆうじゃね?」
「……おう。そうか。いけそうか」
「いけそう」

◼︎

「きょう、◯◯にせつぶんできんの? ってきかれた」
「ほおお、なんて答えたの?」
「えっ!? いまさら? なんとかなるんじゃない? っていった」
「ほお……」

◼︎

「ぐおおおお!」
「あはははははは!」
「これ、恐竜の動きの鬼な」
「こわいわ」
「どうだ! 母ちゃんよりこわい鬼はいないと思うぞ!」

◼︎

「鬼、どうだった?」
「なかなかったよ。あれ、おめんだったわ」
「去年、母ちゃんお面だって言ったよな」
「わすれた。いえでもまめまきやろうね!」