仮庵

書きとめる仮住まい

地味でもひかりを発見する日々を。

この記事を読んだ。

劇的は遠回りで、地味は近道。 - 日々の食卓から

地味が近道で、いい、ってことは案外たくさんあるはず。

自分のごはん作りにしろ、子供の成長にしろ、日々積み重ねることというのはとても地味だ。
自分が得たいスキルを取得するまでの道のりもそのように思う。

ただ積み重ねた地味は、かんたんにはゆらがない大事な柱のひとつになる。
その柱があるゆえに、あらたな挑戦もできるだろうしちょっとした冒険もできる。
もしダメだったら帰ってこられる柱があるのは強いなと思う。


それに、ある時急に昨日までできなかったことができるようになった子どもの成長だとか、疲れて半開きだった目がかっぴらくくらいおいしいご飯が炊けただとか、日々が地味だからこそピカッとひかる喜びに出会えることもある。

華やかなことばかりだと、そのよわよわしいひかりを見逃してしまう気がするし、地味な日々に自分で呪いをかけていると、不満しかいだけない。

遅々としていて前進をわかりやすく感じられず、つまらないと感じたものにたいして、どれだけおもしろくなるようにできるか、という探求も地味ながら、楽しい。

そこいらにある地味のなかにあるものは、きらっと光ることがたまにあるけれど、気がつけるのは自分だ。気がつくか気がつかないかは自分自身の目にかかってる。

鬼がくるまで

「なあなあ。先生に言われたんだけど、ゲームできないんだって?」
「うん。こわい」
「訓練する?」
「それよりもんだいは、せつぶんだ」
「おっ……おう。あ、いわしとひいらぎの防御アイテムでも作るか……?」
「ひいらぎってなに?」
「クリスマスの葉っぱ」
「あー」

◼︎

ドッジボール、うまくなりたい」
「よし!特訓だ!」

……

「なんだ、よけれるじゃん」
「うまい!?」
「うまいうまい。ていうかだ。母ちゃんは親だから容赦なく投げつけるけど、先生とか、友だちとかはこんなに投げてこないから大丈夫だよ」
「やってるのは、ころがしドッジボールなんだよね」
「……えっ。それだったら問題ないから。普通のドッジボールだと思って、普通に投げつけてたわ」
「もっととっくんしよう!」
「疲れるわ……」

◼︎

「もし今日できたら、母ちゃんにいちばんに教えてな」
「うん」

……

「きょう、ドッジボールできたよ!!」
「やったじゃん! あとは鬼だな」
「もう、ドッジボールもできるし、よゆうじゃね?」
「……おう。そうか。いけそうか」
「いけそう」

◼︎

「きょう、◯◯にせつぶんできんの? ってきかれた」
「ほおお、なんて答えたの?」
「えっ!? いまさら? なんとかなるんじゃない? っていった」
「ほお……」

◼︎

「ぐおおおお!」
「あはははははは!」
「これ、恐竜の動きの鬼な」
「こわいわ」
「どうだ! 母ちゃんよりこわい鬼はいないと思うぞ!」

◼︎

「鬼、どうだった?」
「なかなかったよ。あれ、おめんだったわ」
「去年、母ちゃんお面だって言ったよな」
「わすれた。いえでもまめまきやろうね!」

運が悪くても

雪で道がせまくなり、ゆずりあってなんとかしのいでいる道で、よける気がない車と、おそらく意味がわからずパニックになっている車とのすれ違えない状態に巻きこまれる。しばらく待つ。
ゆずりあいのたいせつさをあらためてこころにきざむ。

気晴らしに、カフェラテを飲もうとするも機械トラブルで出ず。直そうとしているのをしばらくながめる。なおらず。コーヒーを飲みたかった気持ちもしぼんだので返金してもらって店を出る。

あー。天気がいいのが救いだなー。
と、笑う。

ふたたびせまい道で対向車に出会う。
ゆずる。お礼の合図をされる。
カップルなのか夫婦なのかわからないが、相手かたは楽しそうに話している。かってになんだかうれしくなったことに気がつく。

ねじまがったら、ありがとう

わたしは「ありがとう」を言えないやつだった。
気がついたときにはすでにガンコもので、ねじまがったヤツだったので、これらは言う回数の少ないことばだった。

オットといるようになってまずビックリしたのは、ほんとうによく「ありがとう」を言うことだった。
こんなことで? たいしたこともないのに? と、よくとまどった。
それを指摘したとき、義母に「ありがとうだけはちゃんと言おう」と言われたのだという。

慣れるまで少々時間はかかったけど、いつの間にかオットと同じようにささいなことでも「ありがとう」を言うようになった。
家だろうが、スーパーだろうが、コンビニだろうがありとあらゆるところで、やりとりが発生したら「ありがとうございます」と言っている。

子どもも「ありがとう」はしぜんと言えるようになった。ちなみに「ゴメン」は言えるけど「ごめんなさい」を言うのには勇気がいるようだ。(言った後泣く。その気持ちはよくわかる。わたしも多分言ったら泣く)

さいきんなんでこんなにきもちがスッとしているのだろう? と考えた時「あ。ありがとうって言えてるからなんじゃないか?」と気がついたというはなし。

こんなことで? たいしたこともないのに? ということにちゃんと「ありがとう」を言う。最初は照れくさくてむずかしいけど、やりつづけるとねじまがっていたこころがちょうどよくなる。

オットと数学とわたし

オットと結婚しなかったら数学とは二度とお目にかかることはなかったとおもう。たぶん。

いっしょにテレビをみているとき、数学の問題をすいすい答えていくオットを「すげー!」と思い、尊敬する。なんでわかるのか! 教えてくれるけれどなにを言っているのかわからない。

けれども未知が好きだ。いや、一般的には未知じゃないのだけどわたしにとっては未知だ。わかったら面白そうだと、わからないことに出会うといつも思う。

小学生のころは、分数はできた。教えてくれた先生が好きだったからだ。足し算と引き算はいまだにとくいではない。車の時計が9分進んでいるのでまいにち9を使った引き算だけ訓練している。ちょっととくいになった。
中学生のころは、おぼえていない。
高校生のころは、とつじょ三角関数だけ得意だった。たぶんいまはもうわからない。
要は、それ以外はなんにもおぼえていない。

わたしもオットのような「すげー」になりたいので、中学数学の素因数分解だとかの時点で「意味がわからん」とやっぱりおもいながら、ちまちま調べる。納得できる瞬間がくるとたのしいのです。

子どもと図書館に行くとおのずと児童コーナーにゆくので、子ども用のさんすうの本などを読めばいいんじゃないか! と先日気がついて読んでいます。たのしい。



さいきん、同じものをみていてもオットとわたしとではとらえかたの角度のようなものが、まったくちがうのではないかと推測している。

ばくぜんとそうおもうだけで、まだはっきりとしたことはわからないのだけど。
たまに子どもとオットが図形で遊んでいるのをみて、そうおもう。
彼らはどうやら三次元を得意としているようなんだけど、わたしはそういう次元らしきものがない。あえていうならツリー構造にするとよく理解できる。

たまに「これってどういうこと?」と聞くととことんつきあってくれるので、そんなオットにはおかえしに、国語のテストの解き方を教えた。
やっと理解できた、と言っていたのでちゃんとおかえしになったようだ。もう国語のテストなんて受けないとは思うけど。