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仮庵

書きとめる仮住まい

運が悪くても

雪で道がせまくなり、ゆずりあってなんとかしのいでいる道で、よける気がない車と、おそらく意味がわからずパニックになっている車とのすれ違えない状態に巻きこまれる。しばらく待つ。
ゆずりあいのたいせつさをあらためてこころにきざむ。

気晴らしに、カフェラテを飲もうとするも機械トラブルで出ず。直そうとしているのをしばらくながめる。なおらず。コーヒーを飲みたかった気持ちもしぼんだので返金してもらって店を出る。

あー。天気がいいのが救いだなー。
と、笑う。

ふたたびせまい道で対向車に出会う。
ゆずる。お礼の合図をされる。
カップルなのか夫婦なのかわからないが、相手かたは楽しそうに話している。かってになんだかうれしくなったことに気がつく。

ねじまがったら、ありがとう

わたしは「ありがとう」を言えないやつだった。
気がついたときにはすでにガンコもので、ねじまがったヤツだったので、これらは言う回数の少ないことばだった。

オットといるようになってまずビックリしたのは、ほんとうによく「ありがとう」を言うことだった。
こんなことで? たいしたこともないのに? と、よくとまどった。
それを指摘したとき、義母に「ありがとうだけはちゃんと言おう」と言われたのだという。

慣れるまで少々時間はかかったけど、いつの間にかオットと同じようにささいなことでも「ありがとう」を言うようになった。
家だろうが、スーパーだろうが、コンビニだろうがありとあらゆるところで、やりとりが発生したら「ありがとうございます」と言っている。

子どもも「ありがとう」はしぜんと言えるようになった。ちなみに「ゴメン」は言えるけど「ごめんなさい」を言うのには勇気がいるようだ。(言った後泣く。その気持ちはよくわかる。わたしも多分言ったら泣く)

さいきんなんでこんなにきもちがスッとしているのだろう? と考えた時「あ。ありがとうって言えてるからなんじゃないか?」と気がついたというはなし。

こんなことで? たいしたこともないのに? ということにちゃんと「ありがとう」を言う。最初は照れくさくてむずかしいけど、やりつづけるとねじまがっていたこころがちょうどよくなる。

オットと数学とわたし

オットと結婚しなかったら数学とは二度とお目にかかることはなかったとおもう。たぶん。

いっしょにテレビをみているとき、数学の問題をすいすい答えていくオットを「すげー!」と思い、尊敬する。なんでわかるのか! 教えてくれるけれどなにを言っているのかわからない。

けれども未知が好きだ。いや、一般的には未知じゃないのだけどわたしにとっては未知だ。わかったら面白そうだと、わからないことに出会うといつも思う。

小学生のころは、分数はできた。教えてくれた先生が好きだったからだ。足し算と引き算はいまだにとくいではない。車の時計が9分進んでいるのでまいにち9を使った引き算だけ訓練している。ちょっととくいになった。
中学生のころは、おぼえていない。
高校生のころは、とつじょ三角関数だけ得意だった。たぶんいまはもうわからない。
要は、それ以外はなんにもおぼえていない。

わたしもオットのような「すげー」になりたいので、中学数学の素因数分解だとかの時点で「意味がわからん」とやっぱりおもいながら、ちまちま調べる。納得できる瞬間がくるとたのしいのです。

子どもと図書館に行くとおのずと児童コーナーにゆくので、子ども用のさんすうの本などを読めばいいんじゃないか! と先日気がついて読んでいます。たのしい。



さいきん、同じものをみていてもオットとわたしとではとらえかたの角度のようなものが、まったくちがうのではないかと推測している。

ばくぜんとそうおもうだけで、まだはっきりとしたことはわからないのだけど。
たまに子どもとオットが図形で遊んでいるのをみて、そうおもう。
彼らはどうやら三次元を得意としているようなんだけど、わたしはそういう次元らしきものがない。あえていうならツリー構造にするとよく理解できる。

たまに「これってどういうこと?」と聞くととことんつきあってくれるので、そんなオットにはおかえしに、国語のテストの解き方を教えた。
やっと理解できた、と言っていたのでちゃんとおかえしになったようだ。もう国語のテストなんて受けないとは思うけど。

2016

今年変わったこと。

  • もう、自分が前に出たいという情熱みたいなものがさーっと無くなって、気がついたら誰かの役に立つことがしたいと思いはじめている。たぶん、子どもの影響。
  • 自分が死んだら。ということをよく考えるようになった。
  • おおらかだと言われるようになった。二十代は怒ってばかりいたのが、落ち着いたようだ。
  • よくメモするようになった。
  • 意識してないがやせた。


今年わかったこと。

  • 誰かの重量のあることばはまだよくわからない。もうちょっとおとなになったらわかるのかなあ。
  • 頭のなかにあることを書きつけておくと、冷静になる。
  • わからなくても、逃げないこわがらないこと。
  • 主張はちゃんとしておかなければならない。「気を遣った」という名目の逃げをすると、じぶんのためにならない。
  • 子どもの遊びに全力でおとなのちえをつかい加担するのはたのしい。

目を閉じて、みえるもの

『目を閉じて、みえるもの』を読んだ。
るうさんの文章は、文末が特徴的だなと感じている。そこから、聞いたことのない声が聞こえてくるかのようだ。

目を閉じて、みえるもの

「るうマニア」、途中から「るうマニアSIDE-B」というタイトルで、いくつかのブログサイトに公開したものです。
実用的な話はありません。
ひろくいえば「生きること」と「ことば」について書いたものです。

■本文の章題
道について
Tiny Bubbles
言葉は遊具でありたい
Lyrics(比喩という暗号)
つむじを見るために
紙の本への懺悔
マテリアルの消滅
一度も行かなかった
赤い星の住人
素通りできるひと

音楽のようでもあり、海のような本でもあった。

一編ずつに幕間があって、パッとスポットライトがあたってはじまるそれぞれのおはなし。
きこえてくる楽器がぽつぽつふえてゆく演奏のようなのだ。

しだいに演奏の流れがはやくなるぐるぐるしたもののなかに、いつのまにか飲みこまれていった。
さいごのさいごに、自分のあぶくがみえて「あ、おぼれた」と思ったら読みおわっていて、ざばっと海面に出た。

それまで耳に聞こえていたことばの音楽が、いつのまにか からだぜんたいをのみこんでいたのだ。
読了後の波にゆられながら「もっと読みたいなあ」と思った。
命がけで読書したなとこれを書きながら思った。

◼︎

前回とりあげた『Piece shake Love』は「肉」のことばが矢のように刺さったし、今回は「音楽」のようなことばに飲みこまれた。
どちらもそうかんたんには触れられないことばがからだの中に入ってきた。

ことばって、ふしぎだよなあ。とおもった。
日常つかうことばはそんなにたくさん種類があるようにおもえないし、電子書籍なので、物体としての見え方やフォントなどの特徴の違いはないのだけど、駆る人のことばによって受ける印象が全然違う。
今回と前回はとくにそう感じた。

目を閉じて、みえるもの

目を閉じて、みえるもの