仮庵

書きとめる仮住まい

Scrapboxに勉強記録を残す。

数日、こんなことをやっております。気まぐれです。

 

パソコンで作業をする、ということが数年前からガクッと減っている現状。できることなら多くのことは手元のiPhoneで解決したい。これぞスマホ依存。間違ってないスマホの使い方。

 

現在はPythonで長いコードを書くわけでなく、変数やら関数やらリストやらとファーストステップを踏みしめている状態なので、スマホに無料のIDEをインストールして結果を確認しています。一通り家事をやっつけて、子どもが寝てから腰を落ち着けて長いコードを書くのにiMacを立ち上げる。といった感じ。

 

(ちなみに、これ。)

Python3IDE

Python3IDE

  • Wang Lingling
  • 仕事効率化
  • 無料

 

勉強をはじめると決めた瞬間に問題として浮かんだのは、確認したコード、それに付随する所感や疑問を残す場所をどうするか? でした。

 

基本はスマホで記録することがおおいが、パソコンで勉強をする際も記録するであろう。となると、記録する場所は一箇所がよく、クラウドにお世話になるのが便利。

できることなら、コードがコードとして表示されるたらいい。個人的なwiki的なもの? ブログ?

 

ただ、ブログに書くにはまだ言語のコアを知らなすぎます。というか、プログラミングの基礎もない。

こういうこと? こういうこと?と連呼してばかりの記事がうっかり検索に引っかかってしまうのはちと気がひける。

 

などと考えたものの、結局「ままよ!」と直感で決めたのがScrapbox

合わなかったらまた考えよー。と居場所を決めたのですが、思いの外……いや、想像以上によかった。

 

書いたコードを残すだけではなく、初心者ならではの疑問もいっしょに書き残しています。

日をまたいだことは日付にしたハッシュタグで残しておけるし、自分がどのような経過を踏んだか、を何回も確認しながら改めて追記していきます。

頭の中だけでこういうこと?と考えるよりも、こういうこと? を生の言葉で書きなぐる。これは学ぶうえで大事なんじゃないか。と思った次第。別に間違っててもいいし。あとから追記するし。という気楽さがあります。

たとえばこんな感じ。めちゃくちゃですが。

 

テキストファイルにメモを残した時よりも、「前になにやったんだっけなーうふふー」と参照することが多い。そして具体的になぜかはうまく説明できないが、参照しやすい。おそらくページとページが紐づくリンクがゆえ。やったことを死蔵しない。

 

疑問書いたからあとでここ読んで答えておくれ!とオットへ乱暴にページを送りつけやすい。

 

帰ってきたオットをつかまえて質問責めにしたのち彼が突然見解を話しはじめたら「ちょっと待って!」とPorterを立ち上げて該当するページに即メモを取りはじめられる。パソコンを立ち上げるまで待ってもらわなくていい。

 

家事をしていて「はっ! もしや、こういうことなのでは……」と思った途端即該当のページにメモれる。

 

要するに、自分の勉強とサービスとの相性がとてもよかった。

 

即メモをする、という行動を育むのは思っているよりも難しいことです。

それは習慣による、と思っていたのですが上記の行動により、ツールと自分の相性もすごく大きいと感じました。

 

いままではなんとなーく保存場所としてのみ捉えていたScrapboxですが、こういったころころ移り変わったり行きつ戻りつする断片を即時記録したり追記したり、それとつながるものを改めて読み返したり……ということに対して非常に強力だな、と感じた次第。

それはScrapbox の力でもありますし、スマホメインでアクセスするわたしにとってはPorterというアプリの力でもあります。

Porter for Scrapbox

Porter for Scrapbox

  • shunsuke senoo
  • 仕事効率化
  • 無料

 

幻燈

新学期がはじまり、不慣れなことだらけで子も親もだいぶしんどかった。まだポツポツと問題は起きるものの、やっと生活のリズムが掴め安定してきている。

 

個人的には、『イメージ』に追い詰められたのが一番しんどかった。

親というものを、自分の親からのイメージやステレオタイプのイメージで無意識に演じようとする時がある。主に自分も混乱の中にいるとき。確固たるものがおぼつくと、イメージにすがろうとする。たとえそれが、自分の意に反するものでも。

オットは、イメージする親というものに追いつめられているように見えたと言い、「(自分がイメージする)いい親になろうとしてね?」というストレートな言葉でわたしの『そんなこと思ってねえよコノヤロウ!』スイッチをキックした。反発はわたしを幻惑から脱出させ、『わたし』を取り戻す。

いい親をしなきゃ、とは思わなかったが、親としてこうしなきゃ。は思っていた。おそらく言葉の選び方が違うだけで、オットが言ったことは同義だった。

イメージは幻燈だ。良く見え、良く思え、キレイに見え、どこまでも素晴らしく見える。それらは無意識を誘惑し、無意識を操り、境界を曖昧にしようとする。融合できるのならなんの苦しみもないのだろうが、わたしには自分を更に見失わせる苦しみでしかなかった。その演じようとしたやつが自分にはむかないやつなんだもの。

親はイメージで存在するのではなく、機能で存在すると思っているのにも関わらず、自分も不慣れなことが多いとあっという間に飲み込まれてしまう。まだまだ修行が足りないとがっかりする。

 

親の日常的な機能は、まだひとりではご飯したくも洗濯もおぼつかない子どもが生きるための衣食住の補助をすること。めんどうくさい社会生活をなんとか生きるためのTipsを提供することもある。ただ、これを使うか使わないかは本人次第であるとは伝えている。

本質的な親の機能は、彼らを肯定し(甘やかすではない)帰ってくればただ安心できる。宿題を見ていてほしいとか、何かを作ったから見てほしいとか、怖くて寝られないから抱っこしてほしいとかそういった発達段階に応じた欲求に答えること。それ以上でもそれ以下でもない。

 

日記帳に使う、書き文字日付

日記と呼ぶべきか、雑記と呼ぶべきか。いまだ定まらない『帳』に日々なにかと書きつけている。どうもしっくりこないのだが、便宜上「日記帳」と呼んでいる。

 

自らが書くのも好きであるが、他人が書いた文字や絵を見るのも好きである。

一枚でも綴られていてもかまわない。紙になにか書かれているのをみれば胸ときめく。いつまでも見ておれる。

 

Instagramを訪れ、#手帳、#日記帳などと検索すれば、ていねいに装飾された帳面がずらりと並ぶ。かがやいている。

 

しかし自分の帳面は基本、「単色!文字でみっちり!」である。わたしの右手にオトメゴコロさえ宿っていればああいったこともできたかもしれないが、全身がオトコマエ路線である。

むかし、試しにマネをしてみたこともあるが、なんだかまぶしすぎて「なんか……自分らしくない」とふたつくらいの意味で残念な気持ちになった。

 

いやしかし、我がオトメゴコロも胸の中心にBB弾ほどには残っているから他人の帳面を見て「カワイイー!ステキー!」ってなるのではないか。消えぬようになにかをくべてやらねばならぬ。

 

それで一日に一回、日付を書き記すときだけはかわいさを求める事にした。オトメゴコロが暴発して予期せぬエラーを起こさぬために。

(何歳になっても年相応にオトメゴコロは処理してあげたほうが毎日楽しく過ごせると思う。過剰もいかんが少なすぎるのもよくないんである。真顔)

 

昨晩、歯磨きの暇つぶしにいろいろ書いていたのでアップしてみることにした。

 

文房具・ノートラブ! の想いによってオトメゴコロを満足させられるというのに、書いたら「無骨……!」で眼前と胸のときめきとにギャップとジレンマがあるものの、ページ全部を装飾するのは躊躇する、切ったり貼ったりもめんどうくさいわたしのような方は、日付だけでも装飾するのはいかがだろうか。(提案先がせまい)

 

ワンポイントだけでもかわいさがあればちらっと見たときにふっと嬉しくなれるはず。

 

ポイントは、基本的に鉛筆orシャープペンシル一本で済ませる。というところ。楽だから。

合理性とこれならまあかわいいと言えるだろのギリギリを攻めてみた。

 

書き文字日付の役に立つ点をあげると、日付を他の文字よりも目立たせることになり埋もれないためタイムラインが見やすくなる。

 

わたしはコレだけでまいにち満足できている。

 

f:id:kariio:20180515123618j:image

四十年後に会いましょう

年の瀬である。

いつからかクリスマスの音も師走の音も聞こえることがなくなった。音楽ではなくて、なんというか心から鳴っている、そういう音。

前に聞こえていたそんな音が聞こえなくなったのは、わたしが子どもじゃなくなったからだ。大人になった時はどんな音がするのだろうか。

今は音がしない。いつもどおりに在り、いつもどおりの生活音が耳に聞こえるだけ。たぶん、自分の心の音に耳をすますよりも、周りの音をよく聞く時期なのだと思う。それもきっと、いつか懐かしく思うのだろう。

 

酒瓶片手に実家に向かう車中、雪道に足元をすくわれぬよう歩く老夫婦を見る。

あの人たちにはどんな音が聞こえているのだろうか。まだわたしの知らない音がするのだろう。

そんなことを思う。

 

「もし、六十歳になって、まだ結婚してなかったら、結婚しようねー! 面白そうだし」

なんの打算もなく、ほんとうにただの馬鹿正直で言ったことばは、決定的な一撃だったらしくのちに「オレは、この人と結婚することに決めた」とのことだった。(四十年後に設定したのは、まだ自室に引きこもってひとりでゲームがしたかったからですよ)

 

なぜかはっきり未来が見えたから言ったことばだった。あのばっ!と目に浮かんだ未来で、今日見た老夫婦のように連れ立って歩くのが、わたしの夢なのだ。(まだオットには言ったことはない)

その時わたしはなにか子どもの頃のような……でも違うワクワクする心の音を聞きたい。

そして「なんか、ワクワクするね!」って言いたい。

たくさんの成長

年間の大行事を一通り終えてほっとしている。
わたしもなんだかんだで今年は忙しかった。
「もう、いつ風邪引いてもいいぞ!」という気分。

今年は卒園である。三年間見てきた子供たちが小学校に行く準備をはじめている。いまだに離れ離れになる実感のないまま、ときおりぽつらぽつらとなくなる上靴を見る。

「きょうは、◯◯が小学校にいった」

うちの子どもも行ったのだけれど、まだまったくピンとこない。なぜこういうのは「さようなら」をいうギリギリまでわからないのだろう。

彼らのすごいところ。
それは自ら「こうしたほうがもっとよくなるとおもう」「これじゃあ勝てないから作戦を考えよう」「これ、やりたい人おおすぎない?ちょっと考えよう」などと彼らなりに考えたことを車座になって相談しあい、ときにはオヤツを食べることすら忘れ! よりよくなろうとすること。おばさんはもう、ここに尽きる。
先生が子どもたちが上記のことをしていた、と行っていたのを聞くとグッとくるし、闘志みたいなのも湧く。

はじめてみたとき「赤ちゃんなのか?」と思ったあのちびっ子たちが、大人だってできないようなことをしている。
この経験は、きっといろいろなかたちになって役に立つんだろうなあ、と先に大人になった人間はぼんやり未来を見る。

卒園に伴って使う写真を見ていたら、たった数ヶ月でこんなに大きくなるのかよ!という成長具合。
一番小さい頃は、姿が見えでもすると寄ってたかって「ねえねえ!話を聞いて!!」と6、7人の話を同時に聞かされたものだが、いまではたまに現れても本当に必要な時にしか寄ってこない。独立したもんである。気持ちも成長してるなあ、と思う。

こんなに目覚ましく成長できることが羨ましくなるときがある。本人たちはそんな実感もないであろうが。

じゃあ、自分も成長すればいいんじゃね? という結論に至った。かんたんじゃないことをかんたんな風に言う。

彼らを見守ることができるのも、あと数ヶ月しかない。