仮庵

書きとめる仮住まい

iTunesで音楽を整理していたら、最近聴いている音楽はほぼ我が子発信であることに気がついた。

わたし自身で行ってきたアップデートは子を産んだ頃でだいたい止まっているのである。継続して観察していきたい状況だな、と思った。お子さん喋ってくれなくなったら新規データが入ってこない状況になるんじゃね? って思った。

アップデートしない項目というのは、自分自身がそこに重きをおいていないものだと思ってきたがそうでもないらしい。精神を維持するものより生活(=経済的・生命維持)にステ振りした結果、生活(=人生)全体をささえるはずの精神を維持するものがアプデされないデータになってしまう。

アプデしなくても昔から持ってる音楽聴いてればいいじゃん、って言われたら困っちゃうけど、 いままで聴いたことのないのキター! って、くっそワクワクするし楽しいからさ。

子どもに手帳を持ってもらう→親が楽になる。

夏休みという一大イベントが終わった。

昨年は初めてということもあるし、日々の宿題をこなすのでさえ大変だったので、戦々恐々として待ち受けた夏休みの宿題であったが、うまくスケジュールを出せたことと、子どもがスケジュールに納得し、きっちりその通りに(それ以上でもそれ以下でもなく)こなしてくれたので、想定していたよりもずっとスムーズだった。

今年は去年の経験をそのまま流用しつつ午前は必ず宿題、午後は自習という形で取り組んでもらうことにした。 宿題が全部終わった場合は、宿題のドリルで見つかったニガテな部分を復習することとした。 それ以外はなんでもアリとする。

朝、「手が空いたら今日の予定を立てておいてください」とだけ言い、自由帳にその日にやりたいこと(全部こなさなくて構わないと伝える)を書いてもらう。もし、翌日に持ち越したいものが出た場合は持ち越してもいいと伝えた。

大人が「そんなものは当たり前だ」と思っていることこそハッキリ伝えないと、のちに齟齬がでるので重要だ。 どうして大人は言わなくてもわかるだろうとか、いつか覚えるだろうとか思うのだろう。

予定を立てるという練習は、一年生のときも一瞬試したが続かなかったので一度寝かせたが、今年は継続することができた。

夏休みが明け、何日か後の予定というものが子どもにも存在することを思い出した。

「何日になんの持ち物が必要で、この日は荷物が多いから別の日にこれを持って行って」だとか、 「何日にテストがあって、それも国語と算数同時だからせめてこの数日は教科書を復習しといたほうがよいのでは」 などである。何も無しでは全部覚えてなぞいられない。

その日の管理は自由帳で十分である。しかし、未来の管理はやはりマンスリーカレンダーがわかりやすいよな。と思い、高い買い物だが思い切って『ほぼ日手帳 avec』を購入した。

理由は、

  • 自由帳でのその日の管理が継続できた。
  • 半年分なので、継続できるか検討しやすい。継続できるなら一年分を買う。
  • 水平に開くので、子どもが怒らない。(たわんだり閉じたりするのがキライなので)
  • 子どもの書く字が特大なので、日記を書くにしても1日1ページだとスペースに困らなさそう。
  • カバーを選べると知って子どものテンションが上がったから。
  • オトナっぽい持ち物を持てることは、子どもにとってそれだけでハッピー。モチベーションもあがる。
  • 学校以外の「書く」時間を持つことは、将来自分自身を助けられる可能性がある。

であった。

まずは、予定を管理するものというよりも自分の好きなことを書いてもいいものだということを強調した。ここを言えることも自由帳的にもメモスペースとしても扱える1日1ページの強みだろう。

その上で、自習の管理もできてよくね? と伝えた。あくまでついで。親からするとそこが本命なのだが、そんなものは子どもにしたらひとつも面白くないし、やらされてる感はつまらないだろうから、あくまで。むしろ、なにかしら書いてくれていれば何年か後にみて面白がれていいよね! くらいがちょうどいいと思う。

子どもからは「日付がもう書いてある!」「満月とか書いてある!」と、もう汚れちまった大人が忘れてしまった新鮮な反応が聞けて、なるほどそこに感動するんだな、と思った。

一番驚いたのは、工作するのに紙が必要だったからと切り取るという自由っぷりであった。

わたしからすると、そんなことは思いもよらないので、ホント先入観やジョーシキのなさは羨ましいかぎりである。

マンスリーには自習の予定を書いてくれた。 毎週日曜日に「今週の自習はなにをするよ」と話し合う時間を数分とる。

はじめてやる時に、項目のアイデア出し(ダメ出しなし)をしたので、その中から選んで埋めていく。

うちの子は「できれば楽はしたいが、まあやっておいたほうがよいことって常識的にはあるよね」という人なので、楽なことと、面倒だけど小学生としてまあやっておいたほうが損ではないことを半々くらいで埋めてくれる。

何曜日の予定は固定にする、とかいうのも自分で決めていた。それでいいかと聞かれればもちろんOKを出す。 自分で決めたこと、そしてそれをやることが大事なので。

時間の少ない日は教科書を音読しとけばオッケー。というルールも登場し(うちの子が一番キライなことなのに埋めあわせようにするのが不思議)、何かしらの事情で自習の時間が少ない場合は、音読に置き換えたりもする。

この、日曜日にやることを子ども本人に決めてもらうということの想定外だった効力は

  • 週の全体が見渡せるので、その日その日で場当たり的に決めていた時よりバランスがよくなる
  • 自分で決めたことなのでやらないということがない
  • 親がうるさく言わなくてもいい

である。

それまでは「今日何するの?」「めんどうだからやらない」とか「今日何するの?」「足し算でもやろうかな」「最近ずっと足し算しかしてないけど漢字はやらんくていいのか」「いいの!」 だったが、それがなくなって本当に楽になった。

そう、楽になったである!

母親のストレスの1/3くらいは「なんやかんや言わないといけない」である気がする。そして、言ったところで効果はほぼない。

かといって言わないなら言わないで「言ってくれないから忘れるんだ・気がつかないんだ!」と逆ギレされる。「じゃあ忘れないように・気がつくようにどっか見えるところに書いておけや!」と言い返すとなるほど……ぐぬぬってなる。 ならば書きやすい・確認する場を提供すればよい。

自分で時間割と見比べて予定を立てたり、確認してもらうと「アレやったのか、アレはどうなったんだ」をいう回数が減るので、めっちゃオススメである。

「今日の予定確認した?」と聞くと「とっくに! ちゃんとみたもんね」と返ってくる。

「レッツダラダラ!」のためにもやりとげてくれる。

口うるさく言うのに疲れたら試してみてはいかがでしょうか。

じつはマイナス地点にいる可能性。

英語の勉強やら筋トレをしていて、最近思うことがある。

『ゼロからはじめる◯◯』という初心者向けの書物があるけれど、挫折して消えていくビギナーの多くはマイナス地点にいたのではないだろうか? ということだ。

要は、基礎がない状態ということ。ゼロからはじめられたり、高校生向け書物からはじめられる人には小中でしっかり培った基礎があると思う。

しかも、そのゼロという設定は相対的で、例えば高校英語をなんとなーくやっただけの人と、大学入試で英語を勉強した人がある時「英語、やりなおすか」と思ったとして、そのゼロ地点には大きな開きがある。

そんなもんだから、それぞれに思っているゼロの設定が違う。

ゼロからはじめられるというのではじめてみたら続かなかったとか、挫折した、という理由の多くは根性論上の理由ではなく、実は設定されているゼロの基準からすると、マイナス地点にいるから。なのかもしれない。

だから、マイナスにいるとは思いもせずゼロと書いてあるのに挫折してしまう自分は、それに向いてないとか、わからないとかで諦めてしまう。

これはスタートの起点は必ずゼロである、という思い込みからくる悲劇なのではないだろうか。

数直線を引いてみると、ゼロからしてプラスの方向の反対側には幸いにしてマイナスがある。まだ設定されたスタート地点に立っていないだけなのだ。道は閉ざされていない。

しかし、マイナスからゼロに上がるというのはゼロをイチにするよりしんどいと思う。ベクトルをぐるりと反対に向ける作業である。中学一年生で数学が苦手な人間が苦悩する部分だ。

そして、自分がゼロどころかマイナスにいるということを認めるのもしんどい。自尊心はいつだって守られていたい。

ただ、ゼロにも立っていないということを受け入れるとめちゃくちゃ勉強がはかどる。なぜならすべては自分が知ってると思い込んでいる既知のものの確認からはじまるのだから。それは負荷が少ないうえに、新たな発見があったりして日々がきらめく。

「中学英語から? いけるいける」 と思ってやって挫折したら、じつはその理由は日本語を読めていない。これはわたしの経験。 しかも、中途半端に過度な想像力で国語の点数を取ってきただけで、論理的に考える能力がないのに「国語、得意です」風だからやっかいなのだ。

小学生の国語で習う(らしい)品詞についてのアレコレを知らなければ、イメージではなくロジックで日本語を読めなければ、日本製の英語の文法書の多くは日本語で書かれているからハナからつまづくのである。これがマイナス地点にいるということの我が身を犠牲にした一例。 小学国語辞典を読むと、知らないことがたくさんあることに気がついて赤面するだろう。

もうひとつ。最近やっているので書くが、筋トレならば休憩をして筋肉を休ませる必要があると一般には言われる。しかし、それに該当するのは筋肉痛になれるくらいトレーニングしている人であって、筋肉痛にすらならない人間=マイナス地点にいる人は毎日やっていいのである。というのは調べて知った。

自分が実はマイナス地点にいるということに気がつけたら、あとはなんの華やかさもなく日々継続するしかない。 わたしはそれしかしていないから、そうとしかいえないというだけだが。

他人に面と向かって直接スバリと「あなたはマイナス地点にいます」と言われたらとりあえず気分はよくないと思う。一番いいのは自分で気がつくことだろう。

しかし、自然数だけ使っておけばなんとかなる世界で生きていると、まさかマイナスなんていう場所があろうとは思わないのでは? という思いでこの記事を書いた。

数直線を多用するようになると、マイナスの世界はゼロの手前にあることに気がつく。そしてネガティブに捉えられがちな「マイナス」は、そんなに遠くもなく恐ろしくもないごく身近な位置にいるのである。

左右は無限に広がる。自分のスタート地点は自分で決めることができる。

日記帳に使う、書き文字日付

日記と呼ぶべきか、雑記と呼ぶべきか。いまだ定まらない『帳』に日々なにかと書きつけている。どうもしっくりこないのだが、便宜上「日記帳」と呼んでいる。

 

自らが書くのも好きであるが、他人が書いた文字や絵を見るのも好きである。

一枚でも綴られていてもかまわない。紙になにか書かれているのをみれば胸ときめく。いつまでも見ておれる。

 

Instagramを訪れ、#手帳、#日記帳などと検索すれば、ていねいに装飾された帳面がずらりと並ぶ。かがやいている。

 

しかし自分の帳面は基本、「単色!文字でみっちり!」である。わたしの右手にオトメゴコロさえ宿っていればああいったこともできたかもしれないが、全身がオトコマエ路線である。

むかし、試しにマネをしてみたこともあるが、なんだかまぶしすぎて「なんか……自分らしくない」とふたつくらいの意味で残念な気持ちになった。

 

いやしかし、我がオトメゴコロも胸の中心にBB弾ほどには残っているから他人の帳面を見て「カワイイー!ステキー!」ってなるのではないか。消えぬようになにかをくべてやらねばならぬ。

 

それで一日に一回、日付を書き記すときだけはかわいさを求める事にした。オトメゴコロが暴発して予期せぬエラーを起こさぬために。

(何歳になっても年相応にオトメゴコロは処理してあげたほうが毎日楽しく過ごせると思う。過剰もいかんが少なすぎるのもよくないんである。真顔)

 

昨晩、歯磨きの暇つぶしにいろいろ書いていたのでアップしてみることにした。

 

文房具・ノートラブ! の想いによってオトメゴコロを満足させられるというのに、書いたら「無骨……!」で眼前と胸のときめきとにギャップとジレンマがあるものの、ページ全部を装飾するのは躊躇する、切ったり貼ったりもめんどうくさいわたしのような方は、日付だけでも装飾するのはいかがだろうか。(提案先がせまい)

 

ワンポイントだけでもかわいさがあればちらっと見たときにふっと嬉しくなれるはず。

 

ポイントは、基本的に鉛筆orシャープペンシル一本で済ませる。というところ。楽だから。

合理性とこれならまあかわいいと言えるだろのギリギリを攻めてみた。

 

書き文字日付の役に立つ点をあげると、日付を他の文字よりも目立たせることになり埋もれないためタイムラインが見やすくなる。

 

わたしはコレだけでまいにち満足できている。

 

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思うことを思うこと

前略

最近、タロットカードで遊んでいます。
占うとは言えなくて、イメージ・お話作り遊びみたいなことをしています。

なんでだったかな。はじめた理由はたいしたことはなくて、その頃ちょうど気持ちが停滞していたからだったはず。

タロットの面白さはいろいろあるのだけど昨日、今日で面白いなーと思ったことを書きたいんですよ。

というのはね、「思ったことを思ってもいいんだ!」「感じたことに受け入れていいんだ!」と気づいたことです。

世代なんでしょうか、性格なんでしょうか、環境なんでしょうか。わからないけど、わたしのなかには「正解ではないことを言ったり思ったりしたらダメだ」みたいな思い込みが気づいた頃にはあって、正解以外をいうと否定されるんじゃないか? みたいな。答えに自信がないから教室で手を上げられない、みたいなそういう感じです。

気がついたら頑丈な囲いが整形されてしまっていて、あふれんばかりの感動を伝えたい! とすら思わない。思うことすらキケンとさえ感じる。感情が流れないのです。何か思っても、うっ!とせき止められてつかえて出てこない。

わかりやすくいうと、好きな音楽とかこのミュージシャンが好き。みたいなことを言うのがためらわれるのに似ています。否定されるんじゃないか? バカにされるんじゃないか? というような恐怖です。

一応おとなになってきたので「唯一の正解なんて考えなくてオッケー。テストじゃないんだし」というのは頭ではわかっているし、子どもにもいっているのにもかかわらず、自分が正解とかを気にせずあけっぴろげに何か言えるのかといったらためらいがある。

自分のことはだいぶ言えるようになってきたけど、相対したものに抱いた思いを出すって今でも恐怖です。

例えばあなたは、目の前に一枚絵があったとして「好き」「好きじゃない」からさらに踏み込んだ思いって表現できますか? できる……え?できないってどういうこと? と思われたなら、わたしからするとすごく羨ましい!

ああ、いいなー。と思っても、正解じゃなかったらこわいからそれ以上踏み込めない。ということが多くて。ほんとうに胸が膨らむようなことがあっても、鼻筋からおでこにかけて、わーっ!と熱いものが走るのだけど、発散させることができないから、それがしぼむのを待つようなことばかり。

そうすると、目の前にあるものはただの物質です。「いいなー」とか「好きな雰囲気だな」とは思っても、そこでおしまい。そうすると興味にもならない。何も思わないことがふつうなのだけど、なんだかひっかかる。このことは長いことつくづく「なんかもやもやする」と思ってきたことです。

タロットをはじめてしばらくは絵から何かを読み取るってのができませんでした。ここにはなにか確実な正解があるはずだ、っていう思考なので、本を開いた方が早い。

でも、そうじゃない気がすると思いはじめ、しばらく眺めているうちに絵の細かい部分も目に入ってくるようになって「これはなんだ?」「この人はこんなことを考えていそうだな」とか「こういう状況に至った経緯はなんだろう?」とか考えはじめるようになりました。カードを読み取るためのアプローチはいろいろあるんだけど、まずは目の前にあるものから見ていこうと。

練習のために自分に関するたあいもないことや「お話しよー」と気楽にタロットを引くと「思考はいいから、感情を流せ。はじめろはじめろ」といつも言われる。

なんだろうなー。よくわからないなーと思っていて。そんなときにオットが面白がって自分のことも見てほしいと言うのでやってみたら、あるカードに対してつらつらーっとイメージが伝えられて、カード同士の繋がりの可能性もよく見えてきて、それがほんとうに気持ちよかった。

ああ、もしかして思考じゃなくて感情=水を流すってこういうことなんじゃないか。とスッキリしたのです。

そういう自分の中の根本すぎて気づきもしないことがカードをめくってみると出てきたりする。気づいてはいないけど元からあってどこかに隠れているだけだから、存在はする。存在が確認されると考えるようになる。考えるようになるってことはそれらに意識的になるってことです。

自分の嫌いなところや、どうしようもないところってたくさんあって、できることなら違うものになりたい。と思う時もあるのですが、まあ自分は自分であるからガラッと違うものにはなれない。でも嫌いな部分を見つめ直してそれを受け入れた上でどうにかしようと考えることはできる。ときおり触りたくないその深入りの部分に手を突っ込むことは、きっと死ぬまで続く。

そんな「あー気持ちいいなー」という体験があってから、Twitterでたまたま絵画を見かけたら、ただの物質ではなくて、その絵の世界にスッと入れることに気がついた。すなおにつらつらーっと考えが浮かんでくる。なんのためらいも恥ずかしさもない。あ、なんかちょっと目線が変わった気がする! と嬉しくなった。

自分の水みたいものをスッと流すと、そこに入れてもらえるんだな、これは面白いぞ、と思った次第です。

草々