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仮庵

書きとめる仮住まい

(何語だったとしても)文字になっている食べ物は最高。

雑記

調べ物をしていて、Webページなり参考文献が英語だったりすると「ウッ! さ、さようなら……」となるのがいよいよつまらないので、英語を0から学びはじめて2カ月。

0なのはなぜか。中高での記憶は霧散したからだ。でも、高校国語と歴史だけは受けた記憶はあるよ。楽しかったよ。

わたしは、文字情報はそれなりには理解できるが(ものによってマッピングがうまくいかないときもある。そんなときは分解して並べなおす)人から口で説明されることは、その人の言語を聴くための(自分でもよくわからないけど頭の中の)調整をしなければ(いまも)理解しにくく、最終的に学生の頃は聞いても耳に入ってこないか、理解できなくてそわそわするか、パンクして妄想の世界に逃げるか、板書を頼りにしていた。

高校の頃はどのくらいの期間勉強すれば、及第点になるか? という実験とゲームをしていたので成績はあがったがその場しのぎだったのですべて忘れてしまった。

ひとの言っていることを上から順番に追っていると頭が容量オーバーになるので、赤くなっている気がするところだけ抽出して要約し(にこやかに)説明した上で確認と結論あるいは代替案を出せばなんとかなる(むしろ信用してもらえる)ことは社会人になって取得したワザだが、今でもたまに「ほんとうに間違ってないかしら?」とそわそわすることはある。

いまならそれがわかるが、子どもの頃はまったくわからなかったから、先生の話のわからない勉強のできないダメな子だと思っていた。
授業に向いてなかったんだな、と今になって気がついてからは、たぶんただのダメな子っていうわけでもなかったんだな、と自信が回復しつつある。

独学は険しい道だな、と思いつつも楽しくやっている。辞書を開いて「文字がいっぱい。ステキ」と、ときめくことができるようになったので、やっと軌道に乗った気がする。

焦って先に進んでもよいことがないのは経験上知っているので、ひたすら基本を上塗り上塗りして同じところをぐるぐる回っている。ぐるぐるしているが、見落としていたり前に理解できなかったことが「こういうことか!」と気がつくのが楽しい。


机に向かえない時間は、Simple English Wikipedia で食べ物の記事ばかりを読んでいる。
Cooking や bread の記事をぐるぐるしている。同じ記事なのに何度読んでも「ふおお!パン!!ふこふこか?かたいのか?焼ける匂いがする気がする……」と思っている。わたしは幸せ者である。

日本語だろうと、英語だろうと、文字になっている食べ物は想像することはなんともしあわせだ。
英語だと、いまだ食べたことのない味のパンかもしれない!などと妄想ばかりしている。
食べ物の歴史の本が読みたい。

仮庵の、ちっさい気になること。

雑記
  • なにかひとつのこと(例えば趣味の1つなど)に取り組んでいると、他のこと(他の趣味など)がまったく手つかずになるのだけど、他の人はどうなんだろう。

と、たまに思います。
それがいいかわるいか、ということではなく
わたしのささいな気になることです。

わたしの趣味は、編み物と読書とその時気になってしかたがないことを勉強することなのですが、年間その3つがぐるぐるまわっております。

孤独

雑記

今年は雪解けがはやい。
毎日プラス気温で、道路わきに積もっている雪も残りわずかである。

冬用にちぢまったからだがゆるんで、家族はみなどうにもぼんやりしている。

わたしが出かけると言っても、動きたくないようで「いってらっしゃーい」と言われ、夕方にひとりでかけてゆく。

夕日がのびのびしている。夕日も冬の間はからだがちぢこまっていたに違いない。夏至へむけて少しずつ柔軟体操でもしているかのよう。

それを見ているうちに、ぐぐぐっと胸から嬉しさがこみあげてくる。

なぜ、こんなにも嬉しいのだろう。
雪解けや、春の訪れからの嬉しさだけではない。
「いまのわたしは、孤独なんだなあ」
そんなことばが思いついて、トトロみたいに目がくわっと開く。さらに嬉しくなる。

たまたま一人になり、目に入るもの・聞こえるものをことばで共有する者がいない。それでもいいんだ、と思う。

一人でいる駅のホームが好きで、一人でいる大きな街の中が好きだ。
家の中にひとりでいるのとは違う孤独がある。
多くの他人の中、ざわめきのなかにぽつねんとしていることが、すごく好きだ。
そこは、孤独であり、自由なところである。

昼と夜のさかいで、存在すらあやふやになりながら、自分にしか感じられない悦びを抱く。
悦びで充ち満ちる。

カッコ()

雑記

久しぶりに、ガツンと頭に衝撃が走った。

なにかを子どもにきかれ、説明すると、
「あー。そうかー」
と言うが、
「この説明で、わかったかしら?」
と言うと
「わからない」
という。

わたしはこれがふしぎでしかたがなかった。
いったい、これはどういうことなんだろう? と思っていた。

納得しているようなのだけれど「わからない」。
これはいったいどういうことか。

わたしの説明不足かしら? ちょっと難しいことばが多かったかしら? と説明を重ねると「はなしながい」と言われる。


先日、チームとはなにか。ということを説明をしたとき
「あー!! そっかーー!!」とすごく目からうろことばかりの反応だったのに
「わかった?」
と聞くと
「わからない」と返された。

ここで、わたしはやっと子どもの「わからない」の中身が見えた。
「(自分で実証or経験していないから、まだ)わからない」なのだと。

わたしも「わかった」ではなく
「(意味)わかった?」と聞いているから、ズレが生じていたのである。


わたしも「子どもが説明だけではなく、実証or経験を伴わないとわかったとは言わない」なんて思っていなかった。すごく甘かった。


あるごくごく当たり前だと思っていることを、コアイメージを省いてことばにしたら、お互い全然違うことを言っているように思えて、話が盛り上がりすぎることがオットとはよくある。

なにか違和感があるとわかった段階で「なんか違わない?」とお互いのコアイメージを机上に出したら「あー!!もともとが違う!!」と笑いあったこともあったし「言ってることは同じなのにそこまでの考え方のプロセスが違う!」ということもある。

それがわかってきたので(約10年かかった)、場合によってはお互いに理解できるまで抽象化して話した方がよいときもある。

そちらには注意をはらっていたが、いよいよ子どもにもカッコがあることを、母は気付いちゃったのである。

子どもが寝た後「衝撃的すぎた」としばらく考え込んでいたら「そんなにショック受けないで〜」とオットに言われたが、ショックを受けたというよりは、感動に近い。
目に見えないことばに、カッコ書きが見えた!! という発見だったのだもの。

いやなこと

雑記

連日「たたかれた」と子どもがこぼすようになった。
連日なので、毎日叩かれているのか? と思ったのだけど、こっそり母の中で整理するとどうやら1、2回のように思える。

ショックだったのかしゃくぜんとしないのか、連日こぼすうえに顔色も悪く、疲れた感じになっていき、寝つきも悪く夜中も起きてくるなどストレスを感じているようなので、真剣に聞くことにつとめてみる。

しかし、聞くだけではスッキリしないようで毎日「たたかれて、いやだった」と言う。なので、デストロイヤー母の解決策を述べるも意見は合わない。

もともと、意見が合わないことは知っているので他人の考え方というものを投げるだけで、そこですべて解決するとは思ってはいない。
とりあえずそういう考えもあるんだよ、というだけ。

最後は抱きしめて、二人でうふうふして話は終える。

✳︎

はたして、子どもの中でなにがひっかかっているのだろうか?

生き写し原本のオットに聞くも、原本はそういった他人との衝突をなんとかすることは早々にあきらめたらしいのでどういうプロセスであきらめたのかという情報を収集するにとどまる。

オットとの会話中に長考していると、ふと
「たたかれた」ことをどうこうしたいわけではないのでは? と気がつく。
その仮定のもと「気持ちが整理できていないだけ」なのではないかと考えた。

頭の中だけで整理できないのなら、可視化だよな。とは思ったのだけど、幼児にノートに箇条書きで羅列しろというのも無理がある。

あと、いやなことだけを可視化するのもなんだかな。と思ったので、中心に子どもの名前を書き「たのしいこと」「すきなこと」「いやなこと」「さいきんできるようになったこと」「がんばってみたいこと」という項目を作ってマインドマップもどきを試してみることにした。

聞く順番は、上記のとおり。真ん中でいやなことを聞いてみた。
最初にたのしいことでテンションをあげて、最後も自信のもてる元気な感じで終わらせる。これならどうだろう?

それを試す前に、まずはこの表がなにをして遊べるかを見せることにした。

子どものすきな動物を真ん中において、その動物が「どんな」で「なにをした」という遊びからはじめた。(途中で「どこで」などもふえた)

挙手制にしておき、模範的回答をオットにまかせ、わたしはありえないおかしな動物にして遊ぶ。子ども負けじと面白いことを言おうとする。

ハチワレのーネコがーねむっている。
コンビニでーネコがーアイスを買った。
山でーネコがー宇宙と交信している。
とか、そういうことば遊び。

めちゃくちゃおもしろかったらしく、A3の紙がぎっしり文字で埋まり、自分でも書いてみたい! と言ったり、なかなか白熱した遊びとなった。

これを1日やって、翌日にいよいよ子どものもやもやを可視化してみる。

「昨日やった遊びあるじゃない? きょうは、◯◯でやってみようと思います」
「やるやるー!」
と、やはり前置きしておいて正解だった。

質問のしかたが難しいな、と思ったのだがとりあえず「◯◯のなかで、たのしいことはなんですか!」「はい!」
と、前日と同じ挙手制にしてみた。

いやなことは「たたかれたこと」と「ねむいこと」。たたかれたことは、日付まで覚えていた。
それをどう解決するか・折り合いをつけるかは別にして、たたかれたという事実だけを二人で共有するにいまはとどめてみようと思う。
じゃあ、それをどうする? までは聞かない。

わたしはこういうことをすぐに解決したくなるものだけど、子どもはわたしじゃないので時間がかかるかもしれないし、解決したくないかもしれない。そこらへんは、解決策を相談されたら一緒に考えようと思う。

いやなことよりも、たのしいこと・すきなことの方がたくさんあり
「◯◯は、たのしいことと、すきなことがたくさんあっていいね!」
「うん!あとね、あれもたのしいんだよー」と、そっちの方がたくさん出てきた。



これをしてどういったことになるかはまったくわからなかったのだが、その日以来「たたかれる」とこぼすことはなくなった。
文字にしたことによって忘却したのか、可視化されてスッキリしたのか。

ひっかかっていたものは、たのしいこと・すきなことの多さに比べれば小さなものだったのだろうけど、それは硬くていつまでもゴロゴロとしていたのかもしれない。そりゃあ、安眠もできない。

とりあえず、寝つきが悪いことも夜中に起きてくることもなくなり、毎日寝相悪くスヤスヤ寝ていてちょっと安心はしている。