仮庵

書きとめる仮住まい

あくとり名人、隠し味担当

今年は何度もこどもにカレーを作ってもらっている。同じ材料、条件で作っているというのに家の中で一番うまいカレーを作る。親バカ補正があんまりないので、観察していた結論から言うとたぶん(ビビりながらの)炒め方がていねいだからだとおもう。母はおおざっぱだ。

 

わたしの具合がとっても悪くても、食事はさせねばならぬ。腹はへるのだ。

「……母ちゃんはもうダメだ。きみ、カレーを作らんかね」

「いいよー!!」

いちおう、危険がないかの監視をしつつ全部こどもに作ってもらったこともある。

ビビりがゆえの慎重さのおかげで無事やりおえる。

 

身支度が自分でできるようになった頃だっただろうか。

母がいつまで生きているかなんてわからぬのだから、ある程度生活するに必要なことを少しずつでも教えておかねばならぬと思うようになった。

(これをリアル世界で発言すると、若干みなさんの顔がひきつる)

 

教えるといっても、勉強させるように教えるのではなく「みんなー!! ごはんが、作りたいかーー!」「いえーーい!!」みたいなノリ。

 

段階を経て、ひとりでできる?・できるんだ!・たのしい。という土壌はできたようだ。これでひとまずオッケー。

 

「米を炊かぬか」「え!?いいの?やるやるー!」

しめしめ。

 

米の洗い方・炊き方。カレーの作り方(これは応用すれば野菜炒めにも他の煮込み料理にもなるだろう)まで終わった。ほかのものが食べたければ、家にある料理の基礎本でもインターネットでも調べるとよい。

そして、母ちゃんは、たいていのものは自分で作って食べていたという経験だけ覚えておいてくれればそれでよい。

 

あとはエクストラステージで、洗濯・繕い物・掃除。「こういうことも自分でできる」ということを見せておけば、なんとかなろう。なんとかしてくれ。

 

あ、なんで卵焼きとかじゃなく、カレーなのか。というと、わたしの好物だから。ケケケ。

それに卵焼きって、最初の一歩目として登場するけど、難しいと思うんだな。カレーなら煮てルーを入れてしまえばなんとかなる。

 

さて、これから「あくとり名人!登場!」「かくし味、担当!」と勇ましい子どもが作ってくれたカレーを食べるのでありますよ。

夕陽を見にゆく

たまたま夕方に公園にいて、たまたま夕陽を見た。

「あー沈んでくわー。はやいわー」
なんて言いながら、感傷的になることも感動的になることも無意味だとか時間の無駄であるとかそういうものも一切思うことなくただそれを事実として見た。

夕陽が沈むということは知っていたが、沈む瞬間を見届けたことはなかった。

 

なんの感情も意味もともなわないその状態というのがいままで体験したことがないシロモノで「なんにもない」というのがおもしろく、今日もでかけた。

一人用のレジャーシートを敷き、その上に体育座りをして西の方向を向く。リアル仮庵?

犬の散歩をしている人や、ウォーキングをしている人からすればかなり変なヤツとして映るであろうが、そんなことは気にしない。

無音でもよかったのだけど、今日は試しにヘッドホンをして爆音で音楽を四曲聴いた。

その音楽が、わたしのなにかを揺さぶりもせず刺すこともひっかくこともない。ただよい音、よい歌詞が耳のそばで鳴っている。


夕陽は、急激に雲の波間に飲み込まれていく。それを見るだけ。それでしまいだ。片付けて帰るのみ。

 

けっして生活に必要でない、物質的にいうならばかなり無意味であろうこと。

 

事実をなぜか見にいく。なんの感情も欲しいものもそこにはない。なんで?と聞かれたら「おもしろいから」ということばしか見つからない。意味も無意味もこれにはないのではないかとも思う。

 

意味のあるものとして価値を強くしたり、無意味だと思うものに無理やり理由を与えようとか、そのようなことせず(たとえば、きもちがよいからとか、癒されるとか、ストレス解消になるとか、そういうたぐいの意味)ただ「ある」ことを「なにもなく」見ている。

並縫いのよろこび

ぽつぽつと並んだ並縫いの縫い目はかわいいと思う。

(きょう変換するまで並ではなく、波だと思っていた!)

布地をちくちく刺しながらすすみ、針を抜くとスッとあらわれる縫い目。規則正しく縫えることもあれば、不ぞろいのときもある。これにキュンとしないではおれない性分。放っておきすぎて枯渇しがちなオトメゴコロが潤う潤う。

飽きずにキュンキュンしているうち、できあがっていく。とほうもない生地量のときすらも(縫わねばならぬようにしたのは自分だが)、すすんでいけばいずれそうなる。

きっちりミシンで縫ったような頑丈さはない。自分で縫っているというたのしさ。もろさやヘタクソがゆえの荒さーーそして上手になりたい! と誓う向上心――も含めて、うれしくて、楽しいのだ。

針を持っている、刺している、布地を正す。それだけで「ああ、生まれてよかった」とすら思う時がある。

中表で縫って、布を返してしまえば縫い目は隠れるようになっている。どのようにひと針ひと針縫ったかは、自分だけが知っているヒミツ。ワザと見せる縫い目。あれはセンスも性格も出るなあ。他人の縫い目もしあわせにながめられる。

どれも、やっぱりうれしい。

 

窓の向こうの縫わぬ人にも、これと似たよろこびってあるんだろうな。

 

 

 

(ああ、やっとすなおに書けた)

ふりかえりブレーキ

体調やメンタルが不調な時。
あれれ?なんか変だな? と思って一瞬立ち止まって自分の外側を確認するも大きな異常は見られず「気のせいだべ」とまた激走し、耐えられなくなって倒れる→HP・MPまんたんになるまで時間がかかる。
ということがある。

一昨年を無理したようで、去年は一年間ほとんど動けなかった。

そんなことを鳥頭は繰り返している。
いい加減「気のせい」は無いとわかってきたので、いままで気のせいにしてきたことを書いてみることにした。
現在進行形で実験中だが、書きとめておく。

  • 手帳orノートに週間ページを用意。ノートの場合はざっくり線を引いて1週間を見渡せるようにする。(ちなみにわたしはノート)
    1週間がいいのか、もっといい区切りがあるかは検討中。ただ、一言をいくつか書けるくらいのスペースはほしい。
  • その日その時感じている気分を書く。「あーダルい」と思ったら気のせいだと思わないで流さず書く。どこか行きたいと思ったらそれも書く。やりたいと思ったことも書く。めっちゃ充実してる!と思っても書く。
  • 書いたら他人事と思わず「思ってるんだ!」と受け止める。
  • どうしてもやりたいことがあったらうやむやにしないで、やれるならやる。ダルいって書いてあったら寝たかったら意固地にならず寝る。

体のことを気にせず気持ちで全部ひっぱってしまう(ひっぱっていけてしまう)ことを、こんな単純なことで抑制できる。

今週、わたしは「なんかメンタル不調だなー」とダラダラしていたら二日後体調にきたので「無視して走らなくてよかった!えらい!」となった。
もっと頑張れよ!と自分を責めることなく、自分を褒められて満足。

オットに「こんなこと書くようにしてみたよ〜」と自慢したら「大事!!嫁ちゃんにそのブレーキ大事!!」と言われたので満足。

おそろしい本。

最近「あしながおじさん」を読んだ。

子どもが幼児向けの短いものを読んで「すてきなおはなしだよ」と薦めてくれたのだが、そんなことは初めてでつい嬉しくなって読んだ。母は、福音館書店のやつ。 貪るように読んだ。

ついさきほどは「飛ぶ教室」を読んでみようと思い、ポチった。

わたしのなかで、そういう時期なのである。

モモ、長くつ下のピッピ飛ぶ教室……などなど。子どもの頃、読書家の母親に本を渡されるのがイヤでイヤでたまらなかった。大部分は読まなかったが、致し方なく読んだ結果好きになった本もある。

同世代や、少年少女の出てくる話というのは、わたしのなかでとてもおそろしいものだった。

あの、おそろしいという感情がなんだったのかハッキリとはわからない。

本の中で躍動する彼ら・彼女らを目の前にすると、なんのとりえもない自分に対するひたひた流れる嫌悪感を眼前に突きつけられるようだったのかもしれないし、一度没入してしまうと感情移入しすぎて彼らと共に傷ついたりするのが辛かったのかもしれない。

思い出のせいで嫌いになってしまった音楽と同じ。

数々の自己嫌悪と折り合い……踏み折った気もする……をつけながらすっかりおばさんになった頃、やっと(多少濁ったながらも)まっさらな気持ちで彼等を読めるようになってきた。