仮庵

書きとめる仮住まい

日記帳に使う、書き文字日付

日記と呼ぶべきか、雑記と呼ぶべきか。いまだ定まらない『帳』に日々なにかと書きつけている。どうもしっくりこないのだが、便宜上「日記帳」と呼んでいる。

 

自らが書くのも好きであるが、他人が書いた文字や絵を見るのも好きである。

一枚でも綴られていてもかまわない。紙になにか書かれているのをみれば胸ときめく。いつまでも見ておれる。

 

Instagramを訪れ、#手帳、#日記帳などと検索すれば、ていねいに装飾された帳面がずらりと並ぶ。かがやいている。

 

しかし自分の帳面は基本、「単色!文字でみっちり!」である。わたしの右手にオトメゴコロさえ宿っていればああいったこともできたかもしれないが、全身がオトコマエ路線である。

むかし、試しにマネをしてみたこともあるが、なんだかまぶしすぎて「なんか……自分らしくない」とふたつくらいの意味で残念な気持ちになった。

 

いやしかし、我がオトメゴコロも胸の中心にBB弾ほどには残っているから他人の帳面を見て「カワイイー!ステキー!」ってなるのではないか。消えぬようになにかをくべてやらねばならぬ。

 

それで一日に一回、日付を書き記すときだけはかわいさを求める事にした。オトメゴコロが暴発して予期せぬエラーを起こさぬために。

(何歳になっても年相応にオトメゴコロは処理してあげたほうが毎日楽しく過ごせると思う。過剰もいかんが少なすぎるのもよくないんである。真顔)

 

昨晩、歯磨きの暇つぶしにいろいろ書いていたのでアップしてみることにした。

 

文房具・ノートラブ! の想いによってオトメゴコロを満足させられるというのに、書いたら「無骨……!」で眼前と胸のときめきとにギャップとジレンマがあるものの、ページ全部を装飾するのは躊躇する、切ったり貼ったりもめんどうくさいわたしのような方は、日付だけでも装飾するのはいかがだろうか。(提案先がせまい)

 

ワンポイントだけでもかわいさがあればちらっと見たときにふっと嬉しくなれるはず。

 

ポイントは、基本的に鉛筆orシャープペンシル一本で済ませる。というところ。楽だから。

合理性とこれならまあかわいいと言えるだろのギリギリを攻めてみた。

 

書き文字日付の役に立つ点をあげると、日付を他の文字よりも目立たせることになり埋もれないためタイムラインが見やすくなる。

 

わたしはコレだけでまいにち満足できている。

 

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四十年後に会いましょう

年の瀬である。

いつからかクリスマスの音も師走の音も聞こえることがなくなった。音楽ではなくて、なんというか心から鳴っている、そういう音。

前に聞こえていたそんな音が聞こえなくなったのは、わたしが子どもじゃなくなったからだ。大人になった時はどんな音がするのだろうか。

今は音がしない。いつもどおりに在り、いつもどおりの生活音が耳に聞こえるだけ。たぶん、自分の心の音に耳をすますよりも、周りの音をよく聞く時期なのだと思う。それもきっと、いつか懐かしく思うのだろう。

 

酒瓶片手に実家に向かう車中、雪道に足元をすくわれぬよう歩く老夫婦を見る。

あの人たちにはどんな音が聞こえているのだろうか。まだわたしの知らない音がするのだろう。

そんなことを思う。

 

「もし、六十歳になって、まだ結婚してなかったら、結婚しようねー! 面白そうだし」

なんの打算もなく、ほんとうにただの馬鹿正直で言ったことばは、決定的な一撃だったらしくのちに「オレは、この人と結婚することに決めた」とのことだった。(四十年後に設定したのは、まだ自室に引きこもってひとりでゲームがしたかったからですよ)

 

なぜかはっきり未来が見えたから言ったことばだった。あのばっ!と目に浮かんだ未来で、今日見た老夫婦のように連れ立って歩くのが、わたしの夢なのだ。(まだオットには言ったことはない)

その時わたしはなにか子どもの頃のような……でも違うワクワクする心の音を聞きたい。

そして「なんか、ワクワクするね!」って言いたい。

たくさんの成長

年間の大行事を一通り終えてほっとしている。
わたしもなんだかんだで今年は忙しかった。
「もう、いつ風邪引いてもいいぞ!」という気分。

今年は卒園である。三年間見てきた子供たちが小学校に行く準備をはじめている。いまだに離れ離れになる実感のないまま、ときおりぽつらぽつらとなくなる上靴を見る。

「きょうは、◯◯が小学校にいった」

うちの子どもも行ったのだけれど、まだまったくピンとこない。なぜこういうのは「さようなら」をいうギリギリまでわからないのだろう。

彼らのすごいところ。
それは自ら「こうしたほうがもっとよくなるとおもう」「これじゃあ勝てないから作戦を考えよう」「これ、やりたい人おおすぎない?ちょっと考えよう」などと彼らなりに考えたことを車座になって相談しあい、ときにはオヤツを食べることすら忘れ! よりよくなろうとすること。おばさんはもう、ここに尽きる。
先生が子どもたちが上記のことをしていた、と行っていたのを聞くとグッとくるし、闘志みたいなのも湧く。

はじめてみたとき「赤ちゃんなのか?」と思ったあのちびっ子たちが、大人だってできないようなことをしている。
この経験は、きっといろいろなかたちになって役に立つんだろうなあ、と先に大人になった人間はぼんやり未来を見る。

卒園に伴って使う写真を見ていたら、たった数ヶ月でこんなに大きくなるのかよ!という成長具合。
一番小さい頃は、姿が見えでもすると寄ってたかって「ねえねえ!話を聞いて!!」と6、7人の話を同時に聞かされたものだが、いまではたまに現れても本当に必要な時にしか寄ってこない。独立したもんである。気持ちも成長してるなあ、と思う。

こんなに目覚ましく成長できることが羨ましくなるときがある。本人たちはそんな実感もないであろうが。

じゃあ、自分も成長すればいいんじゃね? という結論に至った。かんたんじゃないことをかんたんな風に言う。

彼らを見守ることができるのも、あと数ヶ月しかない。

オープンハートの終焉

この3年間考えつづけた、他人との関わり合いへの悩みを理解できはじめた。
じゃあどうするかという指針はまだ固まらないのだけど、それでも誰とでも腹を割って話せないことだけはわかってきて、そういうもんだと自分に落とし込めば解決する話なのかもしれない。

裏も表もなかった小学生の気持ちのまま馬鹿正直に生きていたら、いつのまにかみんな思春期になっちゃってなんかコソコソひそひそしているのにいつまでもついていけない感じ。

表情と声を聞けばその人がうわべだけでしゃべっているのか否かはわかるものだが、どうしてそのようなものを隠さないで出しているのかが理解できなかった。

もしや、出してないつもりなんじゃないか!?という仮説にたどり着いたら「あー……」となった。ただ、検証するのにそれぞれ聞くわけにもいかないからいつまでも仮説止まりだ。

誰とでも隠し事なく楽しく話せたらいいのに、という望みと現実の隔たりと折り合いをつけるお年頃。
あと、いつでもオープンハートはいけないのかな。剥き身はかすり傷になりやすいものねー。

 

でも「ほんと、馬鹿正直な」とあきれかえりながら遊んでくれた人もいたことは大切にしておく。

思うことを思うこと

前略

最近、タロットカードで遊んでいます。
占うとは言えなくて、イメージ・お話作り遊びみたいなことをしています。

なんでだったかな。はじめた理由はたいしたことはなくて、その頃ちょうど気持ちが停滞していたからだったはず。

タロットの面白さはいろいろあるのだけど昨日、今日で面白いなーと思ったことを書きたいんですよ。

というのはね、「思ったことを思ってもいいんだ!」「感じたことに受け入れていいんだ!」と気づいたことです。

世代なんでしょうか、性格なんでしょうか、環境なんでしょうか。わからないけど、わたしのなかには「正解ではないことを言ったり思ったりしたらダメだ」みたいな思い込みが気づいた頃にはあって、正解以外をいうと否定されるんじゃないか? みたいな。答えに自信がないから教室で手を上げられない、みたいなそういう感じです。

気がついたら頑丈な囲いが整形されてしまっていて、あふれんばかりの感動を伝えたい! とすら思わない。思うことすらキケンとさえ感じる。感情が流れないのです。何か思っても、うっ!とせき止められてつかえて出てこない。

わかりやすくいうと、好きな音楽とかこのミュージシャンが好き。みたいなことを言うのがためらわれるのに似ています。否定されるんじゃないか? バカにされるんじゃないか? というような恐怖です。

一応おとなになってきたので「唯一の正解なんて考えなくてオッケー。テストじゃないんだし」というのは頭ではわかっているし、子どもにもいっているのにもかかわらず、自分が正解とかを気にせずあけっぴろげに何か言えるのかといったらためらいがある。

自分のことはだいぶ言えるようになってきたけど、相対したものに抱いた思いを出すって今でも恐怖です。

例えばあなたは、目の前に一枚絵があったとして「好き」「好きじゃない」からさらに踏み込んだ思いって表現できますか? できる……え?できないってどういうこと? と思われたなら、わたしからするとすごく羨ましい!

ああ、いいなー。と思っても、正解じゃなかったらこわいからそれ以上踏み込めない。ということが多くて。ほんとうに胸が膨らむようなことがあっても、鼻筋からおでこにかけて、わーっ!と熱いものが走るのだけど、発散させることができないから、それがしぼむのを待つようなことばかり。

そうすると、目の前にあるものはただの物質です。「いいなー」とか「好きな雰囲気だな」とは思っても、そこでおしまい。そうすると興味にもならない。何も思わないことがふつうなのだけど、なんだかひっかかる。このことは長いことつくづく「なんかもやもやする」と思ってきたことです。

タロットをはじめてしばらくは絵から何かを読み取るってのができませんでした。ここにはなにか確実な正解があるはずだ、っていう思考なので、本を開いた方が早い。

でも、そうじゃない気がすると思いはじめ、しばらく眺めているうちに絵の細かい部分も目に入ってくるようになって「これはなんだ?」「この人はこんなことを考えていそうだな」とか「こういう状況に至った経緯はなんだろう?」とか考えはじめるようになりました。カードを読み取るためのアプローチはいろいろあるんだけど、まずは目の前にあるものから見ていこうと。

練習のために自分に関するたあいもないことや「お話しよー」と気楽にタロットを引くと「思考はいいから、感情を流せ。はじめろはじめろ」といつも言われる。

なんだろうなー。よくわからないなーと思っていて。そんなときにオットが面白がって自分のことも見てほしいと言うのでやってみたら、あるカードに対してつらつらーっとイメージが伝えられて、カード同士の繋がりの可能性もよく見えてきて、それがほんとうに気持ちよかった。

ああ、もしかして思考じゃなくて感情=水を流すってこういうことなんじゃないか。とスッキリしたのです。

そういう自分の中の根本すぎて気づきもしないことがカードをめくってみると出てきたりする。気づいてはいないけど元からあってどこかに隠れているだけだから、存在はする。存在が確認されると考えるようになる。考えるようになるってことはそれらに意識的になるってことです。

自分の嫌いなところや、どうしようもないところってたくさんあって、できることなら違うものになりたい。と思う時もあるのですが、まあ自分は自分であるからガラッと違うものにはなれない。でも嫌いな部分を見つめ直してそれを受け入れた上でどうにかしようと考えることはできる。ときおり触りたくないその深入りの部分に手を突っ込むことは、きっと死ぬまで続く。

そんな「あー気持ちいいなー」という体験があってから、Twitterでたまたま絵画を見かけたら、ただの物質ではなくて、その絵の世界にスッと入れることに気がついた。すなおにつらつらーっと考えが浮かんでくる。なんのためらいも恥ずかしさもない。あ、なんかちょっと目線が変わった気がする! と嬉しくなった。

自分の水みたいものをスッと流すと、そこに入れてもらえるんだな、これは面白いぞ、と思った次第です。

草々